バラックはいやだ。お家に帰ろう
~無邪気なこどもの駄々に泣く親たち~
災害は発生したその日付をもって記録されるけれど、災害による災厄はその日に終わるものではない。被災した人たちの苦痛は、生活の再建、町の復興の日まで続くということは、91年前に発行された「大正大震災記」の記事にも記されていた。
以下、時事新報社が関東大震災のほぼ3カ月後、1923年12月2日に発行した「大正大震災記」を引いて考えたい。言葉遣いや表記を現代語に改め、一部に句読点等を補ったほかは、ほぼ原文そのままを引用している。91年前の記事とは思えないリアリティが胸を撃つ。
二重橋の前の広場や日比谷公園、上野公園、芝公園、芝離宮、靖国神社境内等、市内いたる所の安全地帯へ避難して、不安と恐怖のうちに震火の第一夜を過ごした罹災者は、いずれもさっそく雨風をしのぐだけの用意をしなければならなかった。
まだ余燼は朦々と黒い煙を立てている中を、近くの焼け跡へ出掛け、争って焼けトタンや曲がりくねった鉄棒などを拾ってくるのであった。疲れに疲れた人々は、大の大人でさえ2枚3枚の焼けトタン板を運ぶに、とても方に担ぐだけの気力はない。言い合わせたように地上をズルズルと引きずる。その不快な響きが終日続いた。
そして持ち運んだ材料で、不細工な小屋をこしらえて、その中で幾日も幾日も不安な日を送っていたのだ。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
一面が焼け野原となった関東大震災の被災地では、身を寄せる避難所とてなく、人々は自らの手で雨風をしのげる場所を作るしかなかった。まるで戦災で焼け出された人たちと同じだ。小屋掛けの材料として引きずられるトタン板の不快な音という表現が生々しい。しかし、それが震災後の被災場所での現実だったのだろう。
警視庁と東京府ではできるだけの努力を尽くして、日比谷、九段、上野、明治神宮外苑、芝離宮、芝公園の6カ所へ、昼夜兼行で2743戸のバラックを急造し、東京市管理の下に片っ端から罹災者を収容した。
焼けトタンの小屋から引き移った罹災者は、ともかくも完全に雨露をしのぐことができたのだが、なにぶん2畳に3人の割で収容されたのであるから、日を経るに従って、居住者の間にいろいろの苦情や不平が持ち上がった。
しかし最初のうちは、露営から建物の中に入ったのであるから、何にも知らない子供達は「お母さん今夜からはチャンと寝ることが出来ますのネ」などといって、親達の涙を誘ったのもあった。日比谷公園では無心の子供達が、ブランコや滑り台で嬉々として戯れた。
バラック居住者に対して東京市では自治的組織の編成を試み、それぞれ町会組織として居住人の中から代表者を互選することにしたが、日比谷公園のバラック街は仲町、西町、北新町、北町、東町の名称が附せられ、飲食店や商店が続々開業された。
地震焼きだのドンドン焼きだの復興屋だのと当てこのみの名称をつけた飲食店が軒を並べ、夜は提灯屋、懐中電灯屋、アセチレンランプなどの露店がバラック街の通路へ所狭きまで店を広げた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
規模や環境は違っても、まるで現在の仮設住宅を思い起こさせるような記述が続く。その描写は、とても91年前のものと思えないほどだ。それは災害に罹災した人々のおかれてきた環境が、時を経ても本質的にはそう大きくは違っていないことを示しているのかもしれない。関東大震災、阪神淡路大震災と繰り返されてきた状況は、東日本大震災にも共通するところが少なくないように思う。次の大災害の被災地でも繰り返されることになるだろうか。
日を重ねるにしたがって落ち着いてきた罹災者の中で、資力があるものはそれぞれ焼け跡へバラック建築の用意を始め、出来上がるとさっさと引き移って行くが、資力のないものは、前途を悲観しながらも、毎日の配給品で生活して行くのであった。
「お母ちゃん、バラックはもう飽きたから早くおうちへ帰ろうよ」といたけない子供にせがまれる母親の心持ちはどんなにか切なかったことだろう。
バラック街には小学児童のために教育機関が設置され、図書館も開かれた。赤十字の救護所や診療所の完備していることは申すまでもない。九月の下旬には警視庁や篤志家が据え風呂を持ち込んで、入浴設備も出来、ガスの設備こそないが、伝統や水道も敷設されたので、居住者は不便ながらも生活には事欠かないようになった。
バラックは漸次その数を増し、東京市管理に属するもののほか、各小学校の焼け跡へも続々建設されるにいたったが、収容人数は日比谷の6832人を筆頭に、全部24カ所で合計4万4015人とある。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
「お母ちゃん、バラックはもう飽きたから早くおうちへ帰ろうよ」との声が痛々しい。しかし12月に発行された「大正大震災記」は、せいぜい震災後2カ月間、11月初頭までの状況しか反映していないと考えられる。
罹災した人々のその後の生活状況については、ほかの資料をあたるしかないが、伝染病の流行、衛生環境の悪化、博打の蔓延、治安の悪化などが顕著だったことが伝えられている。
災害による惨禍は発生したその日で完了するわけではない。罹災した人々が生活を再建し、街が復活するまで苦しい日々は続く。生活再建できる人たちと、さまざまな事情からそれが叶わぬ人たちがいたということを、わたしたちはもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。自分たちの問題として。
文●井上良太
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