息子へ。東北からの手紙(2013年8月30日)

iRyota25

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石巻市・蛤浜のCAFEはまぐり堂で

牡鹿半島の付け根にある小さな「浜」、蛤浜(はまぐり)で杉林の枝打ちボランティアに参加した後、おしゃれなCAFE・はまぐり堂で美味しいお昼ごはんをいただいた(もちろん自費ですよ)。

その経験自体とても貴重なものだった。もう少し詳しく言うなら、大きな時間の流れを感じさせられる小さな断片がたくさん集まった空間での体験。うーん、もう少し具体的に述べるなら、お客さんが帰った後のテーブルに残された食器や、畳の小さな染みや、縁側にゆれる木漏れ日や吹き抜けていく風といったパーツのひとつひとつを、いとおしくて大切な物だと「実感」するひと時だった。

でもそのことを詳しく書くのは別の記事に譲る。
今日、伝えたいのは、はまぐり堂のデッキ席で出会った男性の話。

夏の終わりのはまぐり堂。桜の木のテーブルに生じた反りまでいい感じ
夏の終わりのはまぐり堂。桜の木のテーブルに生じた反りまでいい感じ

はまぐり堂といえば、築百年の古民家とアンティーク家具、フレンドリーなスタッフの対応、そして蛤浜に刻まれた物語が魅力のカフェだ。さらに、建物の中と同じくらい魅力的なのが、高台のオープンデッキからの海と浜の景色。この日もデッキ席から海を眺めている人がいた。

「こんにちは」の挨拶から、「どこからいらしたんですか」など、汚れていない作業服を着た50代後半くらいのおじさんと言葉を交わし始めたのだけれど、彼の口から聞き取れない言葉がこぼれた。「えっ?」と聞き返してしまったほど。それは、

「今日はモチノキを取りにやってきたんです。モチノキの種を」というコトバ。

蛤浜とモチノキの種。意外というか、意外なコンビネーションに戸惑いすら感じた。

「仙台市の荒浜から来たんだけど、海岸に松林を再生する時にいっしょに植えるんだ。潮風に強いということなので。でも、宮城県で自生しているのは蛤浜あたりだけらしいんだ」

仙台市若林区荒浜地区――。
何度か訪れた光景が目に浮かんだ。津波に流された海岸線の松の木が無残だったこと、平地にあったはずの建物が2kmも離れた高速道路の辺りまで無くなっていたこと、閉鎖された冒険遊び場の公園のこと…。

「潮風に強いということなんだけど、この辺にしか生えていないらしいのでね。種を集めて持ってかえって蒔くんだ。うまく芽が出たら苗ポットにでも移すんだろうな。ある程度育ててから松林だったところをかさ上げして植えることになるんだろうね」

おじさんは誰かに言い聞かせるようにモチノキの種の未来の話を何度か繰り返した。

種を蒔いて育てる…。

そのことをリアルに想像しようとして、モチノキが大きく育った将来像まで自分の意識が届かないもどかしさのような感覚があった。

種から芽が出て、それが苗木にまで育って、土の堤防に移植して。それからどれくらいの年月をかけて、モチノキは育っていくのだろう。町に押し寄せる津波の猛威を軽減するほどの強くたくましい木に育つまで、どれくらいの時間がかかるのだろう。

10年?
まだ細い若木だろう。

20年?
まだまだ津波に耐えるほどには根を張っていないかもしれない。

最低でも30年とか50年とか、きっとそれ以上の時間をかけて進められる「事業」。

話は大きく逸れるが、「米の道」の話を思い出した。
2千数百年前の縄文時代、米作りが日本に伝わったルートには諸説あるが、
熱帯の水辺原産のお米は、何らかの変異でジャポニカ種が生まれた頃には、
「人類にとって手放すことができない植物」になっていて、
日本に渡来したルートがなんであれ、
心許ない丸木舟で東シナ海を渡る際に、その種が大切に船に持ち込まれたという事実。
最初に日本の土地に根付いてから後も、どんどん各地へ広がっていき、
熱帯生まれのイネが、千年の時間をかけて北海道の亜寒帯の大地にまで広まった。
まぎれもなく人々の熱意によって。
そんな物語。

父さんのような現代人(笑)には、想像できないくらい長い時間の流れの中で成し遂げられていく事業。想像できない未来を想像しきる力。こどもの世代はおろか孫、ひ孫の世代まで視野に入れて植物を育て上げていく仕事。

百年の計…

遠い目で海の方を見詰めながら話してくれたおじさんの言葉に、
一歩ずつ踏みしめて歩いていくことの強さを教えられた。
いや、背中のあたりを、バン!と強く叩かれたような感じがした。

 息子へ。東北からの手紙
potaru.com

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