女川の84歳みつぎさんの言葉。「今回のことがあったから、日本も光ると思う」

iRyota25

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今回のことがあったから、日本も光ると思うんです

女川町こころとからだとくらしの相談センター専門員・阿部弘子さんの活動の場のひとつ、新田地区仮設団地にある仮設グループホームにもう一人の阿部さんが暮らしています。阿部みつぎさん、84歳。弘子さんとは旧知の仲というみつぎさんは、「私は十分です」「感謝しています」という言葉を何度も繰り返し語りました。しかし、みつぎさんの言う感謝という言葉には、普通の感謝という言葉とは違うもっと深い意味があるようです。

持って逃げたのはポケットの中の2000円だけ

私のおじいちゃんが亡くなる時に、阿部さんにはたいへんお世話になったんですよ。看取ってもらったんです。それがこの施設に来たら、偶然また阿部さんにお会いして、本当に助かりました。だから、私は言うことありません。

80何年か生きて来て、大震災に遭って、こんな恵まれた生活ができるとは思っていなかったの。家も何もなくなってしまったけど、親しい阿部さんのような人にお世話になって、幸せです。他の人はどうかわかりませんよ。でも私は幸せです。こうしてここで一生を終えたいと思っています。私は昭和3年の生まれだから、津波には3回遭っているんです。昭和の三陸地震とチリ津波、そして今回の大震災。昭和の三陸地震の時はまだ5歳だったんです。3月3日のひな祭りの夜でしたが、若い人たちが表で大声で叫んでいて。覚えていることと言ったら、ただもう怖かったことだけです。

今回の津波の時は、近くの堀がボコボコ音を立てていて、何だろうと思っていたら、突然家が流れて来たんです。屋根も何もそのままの形で家がまるごと流れて来て、それを見たらもう頭が真っ白になってしまって。夢中でしたね。あと何分か遅れたら波に呑まれていたと思います。その時は民生委員の人が「津波がきたから逃げろー」って言ってくれて、それを聞いたから着のみ着のままで逃げました。たまたまポケットには2,000円入っていてね、持って行ったのはそれだけです。荷物も何もたがわないで、そのまま逃げだしたんですから。

避難先ではたくさんの方にたいへんお世話になりました。たくさんのボランティアさんが来てくれて、海外からもたくさん支援していただいて、ありがたかった。本当に感謝しています。その上、私たちは秋田県仙北市に二次避難させてもらいました。駒ケ岳のところにあるハイランドホテル山荘に避難したんですが、その日のうちに仙北市の市長さんがいらしてね、「不自由がないようにしますから、安心して生活して下さい」って言ってくれたの。市長さんとハイランドホテルの皆さん、支配人さんにはホント、感謝しています。

80何年生きて来て、でも人生の最後に、このように皆さんに良くしていただいて、それで人生を終えるのだから満足です。  

震災の後、若い人たちが変わった。それがいいこと。

阿部みつぎさんは、何度も何度も感謝の言葉を繰り返します。その都度、隣にいた阿部弘子さんから「不満とかあったら言っていいのよ」と促されても、「だって、阿部さんたちには本当に感謝しているんだもの。不平不満なんてありません。ここで最期を迎えられるのが幸せなんです」ときっぱりと言い切っていました。しかし、話がご自身の青春時代のことになると、話のトーンが少し変わりました。

「私たちが若かった頃のことを思ったら、今はホントに幸せです。笑われてしまうかもしれないけど、巨大地震があったから、私らは幸せだと思うのよ」

「私たちの時代は、戦争だなんだっていろいろあったから。嫁に行くのでもあるもので済ませて、青春なんてなかったんだもの。我々の人生はずっと働き通しでした」

「でもね、今の若い人たちはあまりにも飽食。あんまり幸せすぎるんだもの。それが、こういう難に遭って、絆ができて、逆に良かったと思うんです。これがなかったら、若い人らどこまでも上がっていたと思うもの。だからね、これがあって幸せだと思うの」

阿部弘子さんが「大震災があって、子供たち、変わったよね」と言うと、

「そう。いいことだと思います。これがあったから、日本も光ると思う。絆というものにみんなが気付くことができて、良かったとホントに思うんです」

「いつも心のふるさと」みつぎさんが暮らしていた竹浦(たけのうら)は国道から急坂を下った海辺にある
「いつも心のふるさと」みつぎさんが暮らしていた竹浦(たけのうら)は国道から急坂を下った海辺にある
津波で多くの建物が失われた上、地盤沈下がひどく竹浦漁港の岸壁は波に洗われている。(2012年11月)
津波で多くの建物が失われた上、地盤沈下がひどく竹浦漁港の岸壁は波に洗われている。(2012年11月)

多くの人々の命が失われました。大切なものがたくさん失われました。それでも、阿部みつぎさんは、苦しさの中で若い人たちが大切なことを学んだと語気を強めます。

大震災の被害を受けた多くの人々が語る「ありがとう」の向こう側には、その人ごとに異なる背景や思いがあります。みつぎさんにとって、それは日本がもう一度光るための試練だったと映っているようです。短いインタビューの最後にみつぎさんは感謝の言葉を口にしました。

「私は十分です。ありがたいと思っています。でも、私らなんかよりまだまだ困ってる人がいます。その人たちのことを、よろしくお願いします」

◆阿部みつぎさん(女川町・仮設グループホーム在住)
女川湾に浮かぶ離島・出島の出身。昭和三陸地震、チリ地震、そして今回の東日本大震災と3度の津波を経験された。今回の津波では、嫁ぎ先である女川町竹浦で被災。長期間の二次避難を経て、現在のグループホームに入居されている。

取材後記

お話を伺いながら、福島県いわき市久之浜の高木優美さんが話していた「太平洋戦争とそこからの復興を経験された高齢者の方々のことを思うと、自分たち若い者が頑張らないと」という話を思い出しました。取材の後、みつぎさんは「この部屋にはこんなものしかないけど」と筆者に栄養ドリンクを進めてくれました。「若い人がゴクゴク飲んで、元気になってくれれば、それが一番だから」と。傷ついた日本をもう一度よみがえらせるために、若い人が頑張る姿を見てもらうことこそが、きっとみつぎさんたちにとって一番うれしいことなのだと感じました。(取材:2012年3月13日)

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