原発から10km。富岡町のいま

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2013年6月22日
2013年6月22日

JR常磐線富岡駅。
たんまりと水がたまった「立入り禁止」の標識。
印刷した紙をパウチしたものらしいが、
虎ロープに括り付けるための小さな穴から入ってきたのだろうか。
原発事故から2年余り、警戒区域に指定され続けていた時間の重さを感じる。

月の下交差点から駅方向へ

富岡駅へは、国道6号線の「月の下交差点」から右折して向かった。
駅に続く通りに入った途端、軽いめまいのような感覚。
店舗兼住居の1階部分がつぶされたり、大きく傾いていたり。
無事そうに見える建物も微妙に傾いている。

人影がまったくないということが違和感をさらに増大させる。

国土地理院の「2.5万分1浸水範囲概況図」によると、この付近までは津波は到達していない。地震の烈しい揺れによって1階部分がつぶれてしまったのだろう。

通りに残された建物も、まったく人の気配がしない。

民家の玄関を埋めるように伸びた蔓は、トケイソウ。おしべとめしべの形が本物の時計の針のように見える花。南洋の植物のパッションフルーツとも同じ仲間。

震災で人の気配がなくなった場所で、受難の花が咲いているのだ。

 【ぽたるページ】東北の友人たちが言うことには。その10「原発の地元の現実」
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福島県双葉郡富岡町

月の下交差点

通りの左手に小学校があった。
グラウンドでは除染作業が行われている様子。法面バケットとよばれるアタッチメントを付けたパワーショベルで、表土を薄く掻き取る作業をしているらしい。
盛り上げられているのははぎ取られた土だろうか。せっかく除去した土が雨で流れ出していたが、大丈夫なのだろうか。
グラウンドの片隅にはネコ車(一輪車)やトンボ(グラウンド均すT字型の道具)が並べられている。人手による作業も多いことがうかがえる。
同行した下重さんによると、校長室前に設置されたモニタリングポストの数値は、手持ちの物よりかなり低かったらしい。昨年、線量が低めに表示されると問題になった可搬式と呼ばれるタイプのようだ。設置場所に鉄板やコンクリートのブロックが置かれていることも、数値が低く出てしまう理由かもしれない。

駐車場にばらまかれたような瓦を見て、いわき市久之浜で聞いた話がよみがえった。

「揺れが激しくて外に飛び出したら、隣の家の屋根から瓦が滝のようにザザーって落ちてくんの。」

浜風商店街スガハラ理容の奥さんの話だ。

「ほんとにあれは滝ね。ガシャガシャってんじゃなくて、下から順に降るように落ちてくるんだから。怖かったわよ。」

この駐車場で瓦が落ちるのを目にした人は何を感じたのだろうか。

 【ぽたるページ】「仮設商店街で散髪はいかが」スガハラ理容さん
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同行した下重さんのほかに人の姿をまったく見かけない。

人が、いない。
人の姿のない町がどんなものなのか。
初めて知ったような気がする。

散乱するパネルや鉄骨は…、

歯科医院の玄関ポーチの屋根が落ちたものだった。
この辺りでも、前述の「2.5万分1浸水範囲概況図」で見る限り天井に達するほどの浸水ではなかったようなので、地震の揺れで壊れたのだろう。

人がいないので、誰にも聞くことができない。町の形が少なからず残っているだけに、話を聞ける人がいないという事実と、その理由が重くのしかかってくる。

それでも町には花が。
花があふれていた。

マンホールの蓋に描かれているのは桜の花。
花を愛する人がたくさん暮らしていた町のようだ。

【ぽたるページ】富岡町は花の町 - By iRyota25
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立ち入りが厳しく制限されるようになって、3度目の初夏。6月の富岡の町に咲き乱れる花々の写真集。

宅地開発が進んでいた場所

広い空に雲雀が何羽も飛び交い、縄張りを主張する声をあげていた。

月の下から駅に向かう道には、歴史を感じさせる建物が並んでいたが、少し北側に入ったところには、造成されたばかりの住宅地が広がっていた。

「空き地」という単語をつい使ってしまいそうになる。しかし、草が茂った空き地のような場所は、区画が整備された住宅用地。新品ぴかぴかの住宅が何棟か建っている。完成したばかりのようなきれいなアパートもあった。

しかしこのエリアの一角には、町のがれきが山のように積み上げられていた。

耐震等級3は、最高レベルの耐震性ということだ。

建物は美しい姿のまま。
しかし、生活の匂いはまったくしない。

まったく…?

自転車置き場に残された自転車が1台。

壁面にはボロボロになったバナーが風に揺れる。
もはや判読不能なバナー。
「入居者募集」の文字が掲げられていたのは間違いないだろう。

建物が完成し、入居が始まったばかりの状態で残されることになったのだ。

空き地のようになった区画に、点々と被災した自動車。
原形をとどめないほど破壊されたものがある一方で、
誰かが乗ってきたような状態のものもある。

草地に足を踏み入れると、上空の雲雀の声がいっそう騒々しくなる。
人がいなくなった土地には雲雀たちの生活がある。

芽吹いたばかりの草が生えている場所は…、

軽トラックの壊れた荷台の上だった。

横転した軽自動車の窓から傘が飛び出していた。
ボディの向こうに写るタイヤはスタッドレスだった。

倒壊した家屋が、「ガレキではない」と主張している。

そこに住まっていた人の生活が色濃くにじむ、まだ新しいこの家を、ガレキと呼ぶことは誰にもできないはずだ。

ここにも電柱があった。
津波の力の大きさを物語る破壊された電柱が。

被災した物が、造成地の片隅にうず高く積まれていた。

ぬいぐるみがたくさんあった。
なぜかどれも顔を向こうに向けていた。

撤去された電柱の山。
鉄線とコンクリート柱の残骸。

ケーブルの束の上に載せられていたのは鉄道信号の残骸。

まだ家屋の撤去が進んでいないこの町の「被災物置き場」は、おそらく道路などに散乱していたものを集めた最初の作業によるものだろう。

クツやぬいぐるみは、その後、訳あってここに放置されたものなのかもしれない。

原発の影響の少ない被災地で、
被災直後、被災後数日、数週間といった時間経過の中で変化していったものが、
この場所では2年3か月後のいまの時間に凝縮されている。

【ぽたるページ】ガレキと呼ばないで
 【ぽたるページ】ガレキと呼ばないで
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被災したあの時まで、人々の生活の一部に存在した物。ガレキはゴミではありません。生活の記憶が込められた「被災物」なのです。

海へ続く道

被災物の集積所近くの踏切から海へ向かった。

線路は錆びている。
枕木は津波に洗われて浮いている。
そして夏草が力強く伸び始めている。

踏切の警報器の折れた柱の中にも芽生えがあった。

一面の荒地のようになった農地にツツジの花がまぶしい。

すぐ近くの緑の中には消防自動車と田植え機の赤。

放置された、あるいは流されてきた軽トラックの運転席には去年の草。
まるでクルマの運転をするかのような場所に。

海の方に目を転じる。
絵本のような、夢のような景色が広がる。

そして、その先には建物の基礎だけが残る場所。現実に引き戻される。
このあたりには何軒かの宅地があったようだ。
建物は流されてしまったのだろうか。

宅地に寄り添うようにハマナスが群生をなして咲いていた。
みごとなハマナスだった。

JR富岡駅周辺

駅近くの立派な住宅。
原形をとどめているよう見えたが、
内部は直視することがためらわれるような状態だった。
シロツメクサのクローバーが咲き乱れる。

駅前通りから、駅横の駐車場に向かう道を進む。
海が近いこの地域は、工場も民家も大きな被害を受けている。

駅北の駐車場からホームを見る。
列車ではなく、クルマが線路に止まっているのが見える。

駅周辺にはたくさんのクルマが残されていた。
座布団を満載した状態で被災したのは、仕出し屋さんのクルマだろうか。
津波の前では誰のクルマだろうが、高級車だろうが、関係ないらしい。

駐車場から駅のホームに向かう。

「クルマは道路を走りましょう」
そんなくだらない言葉が頭の中をぐるぐる回る。
ここは、線路なのに…。
人間の決めたことなど、津波の前では意味をなさないということか。

駅舎があった場所の近くまで歩いて行って、
虎ロープが張られ、立ち入り禁止になっていたことに気づく。

駅の正面から、出直すことにした。

駅舎が消えた駅の向こうに、かすかに海が見える。

観光案内看板が押し倒されていた。
駅舎の中にあったものだろうか、事務椅子とテーブル。
銀に光るゲートは改札だった場所だろう。
もちろんオープンエアの改札だったわけではない。

駅から商店街を歩いてみた。

表通りから、
こんな景色が見えることがあるなんて、誰か想像したことがあっただろうか。

建物と建物の間にみどりの景色が見える。
みどりの景色の中に、被災した物が残されている。
空が青い。

変身ベルト。
商品だったはずの缶チューハイ。
無事だった酒瓶を誰かが集めて並べてくれていた。

久之浜の酒屋さん、てんぐやさんで聞いた話では、
いったん津波をかぶってしまったら、
たとえ傷ついたり、割れたりしていなくても、もはや商品にはならないそうだ。
缶のタブのところや、ビンのキャップのところに、細かい砂粒が付着して、
拭いても洗っても取れないからだ。

てんぐやさんが、被災した在庫をなんとか蘇らせることはできないかと奮闘したのは、
被災したその年の春から夏にかけて。
富岡町では、2年以上経ったいまも、まだ手つかず。
でも、もはや売り物にはならないことははっきりしている。
それは、津波の砂という問題ではなく、中身の問題として。

駅前に砂にまみれた缶詰が一個。
中身が膨張して、蓋が持ち上がっていた。

駅の南側では、メゾネットタイプのまだ新しいアパートが大変なことになっていた。
真ん中の写真では、二部屋分の階段が並んでいる。
こんな状態は建てている途中でも見られないだろう。

アパートのそばの民家の座敷には、軽トラックがほとんど無傷の状態で収まっていた。
もちろん、わざわざ座敷にクルマを上げる人などいないだろう。

こちらのお宅がいまある場所は…、

道路の上。

津波で流された家が道をふさぐ。
話では聞いていた。写真を見たことはあった。
現実に目にしたのは初めてだった。

しかもこの家は2階部分だけだ。

津波の被害を受けた多くの場所で起きたのと同じことが、ここでも起こっていた。
いま、富岡の町中で見られる光景と同様の光景が、
震災直後にはさまざまな場所で見られた。

直後の状況が2年以上過ぎたいま、ここにある。

この町には、もうひとつ重たいことがある。

それは、なぜ2年以上も震災直後の状態が続いているのかということ。

言うまでもなく、原発事故という現実だ。

軽トラックが座敷に入ってしまった民家には、招き猫が置かれていた。
招き猫がどちらの手を上げているかには意味があるそうだ。
左手を上げるのは「人を招く」招き猫。

「富岡町をその目で見てきてほしい。」
と言ったはままつ東北交流館の佐藤さんの言葉が、
ここまで歩いてきて、沁みた。

「自助・共助・公助」なんていう話以前に、
支援しなければならない町がここにあることは明らかだ。

震災は終わっていない。それどころか、まだ何も始まっていない。

招き猫が招いていた。

現実をもっとたくさんの人に見に来てほしいと。

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●TEXT+PHOTO:井上良太

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