お客さんがいる時はもちろんお店でお客さんと。
ちょっと手が空いたら商店街のイベントに参加したり、
商店街の電器屋さんでお茶っこしたり。
スガハラ理容の菅原紀友さんとマキイさんご夫妻。お二人の笑顔と笑い声に会うのは超かんたん。久之浜第一小学校のグラウンドにつくられた仮設商店街「浜風商店街」に行くだけです。行けば会える、商店街を盛り立てる素敵なお二人なのです。
「あんなの見たことなかったわね。一枚二枚じゃないのよ。お隣の瓦が端から端までザーッと落っこちてくるのよ」
「ああ、滝みたいだったな」
お話を聞かせていただくということになると、やはり「3月11日、あの時のこと」を外すわけにはいきません。
あまりに大きな揺れに驚いて店から飛び出したものの、立っているのも大変で、クルマのドアノブに掴まっていたという菅原さん。瓦が滝のように流れ落ちるという、あり得ない光景のほかにも、昔ながらの丸型ポストが割れている姿など、信じられないものを目の当たりにされたそうです。
「倒れて壊れたんじゃないんだ。立ったまま、刀で斜めに斬られたように割れていた。よっぽどの揺れだったんだな」
それでも「津波」という考えは頭はなかったと言います。「福島に津波はない」という意識がやはり強かったのでしょう。
ご主人は店にあったメダカの水槽からこぼれた水を拭いたりしていたと言います。周囲の人たちも揺れの被害を片付けていたそうです。その時、奥さんが遠くで「津波」という声を耳にします。消防の声だったのか、防災無線だったか、よく分からないそうですが、津波という言葉を聞いた時に、「あれだけの揺れだったのだから、もしかしたら来るかもしれない」と思ったのだそうです。
菅原さんたち二人は車で逃げました。落ちた瓦の片付けをしていたお隣さんにも声を掛けました。「うん、俺も逃げるよ」とお隣さんは言っていましたが、津波に巻きこまれました(それでもお隣さんは生還されました)。菅原さんたちは駅前の交差点で信号待ちしている時、駅にいた人たちが急に逃げ出したのを目にしています。
「たぶん、俺たちの車の後ろの方から津波が押し寄せてきていたんだろうな」
高台の中学校へ避難できたのはぎりぎりのタイミングだったのです。
中学校まで坂を上って行って町を振り返ると、すでに火の手が上がっていました。でも、まさか燃えるとは思っていなかったそうです。
「消防の人たちも、大丈夫だからと言ってくれていたんだ」
しかし、津波警報が繰り返し出されるため、消防が退避している間に、消えかけていた火の手が再び炎となって、商店街の多くが被害を受けたのです。
「逃げる時に持って行ったのは位牌くらい。あとは何にも持って逃げなかったのよね。倒れた箪笥のところにあったバッグとか、ちょっと手を伸ばすだけだったのに。変な話だけどお店の電話の子機はなぜか持って出たりしていたのにね」
奥さんが残念そうに、でもまるで笑い話のように話してくれます。
「仮設商店街の話はいつごろからだったっけなあ。4月ごろ? お店の話だけじゃなくて、同業者からいろいろ支援があったんだ。ハサミとかお店の備品とか。再開しないわけがないと思われていたのかな。まわりの仲間たちの方が何から何まで面倒をみてくれてね」
「ハサミは使い慣れたものが一番なんだけど、一丁だけね、焼け跡の家の敷地から誰かが見つけてくれて石垣のところに置いててくれたのよね」
「それを研ぎに出したんだ。って言っても、研屋さんの連絡先も分からなくなってたから、仲間とかに教えてもらってね」
「海水と火事でずいぶんやられてたから、研いだら小さくなっちゃった」
「でも、研屋さんからも新しいハサミを支援してもらったりしてね」
「本当にありがたいわよ。椅子も洗面台も消毒器も、お店のものは何もかも支援してもらったんだから。中古だけど、それがまた味があっていいでしょ。お店を開く時に買ったのはテレビとエアコンと冷蔵庫くらい」
「うん、店で一番新しいのはあれだな、表のサインポール」
そんなふうに、お二人は楽しそうに笑って話してくれるのです。
外からやってきたお客を素敵な笑顔で迎えてくれる菅原さんですが、辛いことももちろんたくさんあった。あの時を経験した人でなければ理解できないような体験もたくさんあった。それでも、とびっきりの笑顔で話してくれるのです。
浜風商店街の人たちに共通することかもしれませんが、きっととても強くて優しいのだと思います。強さや優しさの度合いが、ふつうでは考えられないくらい大きいのです。
浜風商店街にお出かけの際は、あえて髪を伸ばして行って、スガハラ理容さんで散髪してもらってはいかがでしょう。
震災の当日のこと、経験されたこと、伝えていきたいこと、そしてもしかしたら「将来のこと」も話してもらえるかもしれませんよ。
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
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