東北の友人たちが言うことには。その8「爆心地」

iRyota25

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▼ 石巻2.0の松村豪太さんがいまも書き続けているブログには、タイトルとしてこんな言葉が使われている。

「爆心地から」

石巻2.0の活動の端緒となった小冊子『VOICE VOL.0』のインタビュー記事には、松村さんの中に爆心地という言葉が浮かんだ経緯が次のように記されている。

 九十九パーセントの方は、まあ私も含めて呆然と
して、もう「この世が終わった」という気持ちでし
たね。まず目の前、もう本当に動けるエリアしか、
自分の目で見えるエリアしか見えませんでしたの
で。二~三日、自分の足で実際いろんなところをな
んとか水をかき分け泳ぎながら動いてみて、だんだ
んこう…実感として。私が綴っているブログのタイ
トルに付けた「爆心地」という言葉はそのときに出
てきたものです。

VOICE VOL.0

初めて会って話した時にも、松村さんはその言葉を口にした。

「爆心地そのものでしたから。」

しかし、松村さんとの話は絶望や苦難といったタイプの話ではなかった。復興とか復旧という単語が踊るような話でもなかった。彼が語ったのは、これから先のまちづくりのこと。

「元の石巻に戻るようなことはありません。そんなこと絶対にさせませんから」

爆心地という言葉は、決して悲観的な意味ばかりではないのかもしれない。
その証拠に、彼のブログのタイトルの爆心地には希望の言葉が添えられている。

『爆心地から ~がんばっぺ石巻~』

▼ 2011年3月12日の朝、石巻の隣の女川町で、地元のサッカークラブ「コバルトーレ女川」の檜垣篤典さんが同じ言葉を思い浮かべていた。

檜垣さんは広島県出身。大きな地震に見舞われた時、とっさに「津波」というイメージが働かず、事務所前でおしゃべりをしていたところを、通りかかったタクシーの運転手さんにどやされて高台に逃げた。ぎりぎりだった。津波が町を襲うところも目にした。津波の轟音も、建物が壊されていく音も耳にした。混乱した状況の中で夜を明かしながら、とにかく眠ろうと思った。朝が来て、目が覚めたら、すべてが元通りになっているのではないかと、本気でそう思ったという。

そして12日の朝、現実を前に思ったのが、

「原爆の爆心地と同じだ。」

という言葉だった。

津波が去った後の女川の町の姿が、小中学校の平和授業の中で何度も目にしてきた原爆直後の広島の写真と同じに思えた。でも、檜垣さんは言う。

「その瞬間から、前日までとは、まったく違う時間が流れ始めたのです。」

▼ 震災から10か月後、福島県いわき市久之浜の高木優美さんが、こんな話しをしてくれた。

「80歳くらい以上の方々は、前の戦争を体験されています。戦争で荒廃したふる里の地面を踏みしめ、焼け跡の中から豊かな町を築いてくれた方たちです。そしていま、町は震災と原発事故でふたたび大きなダメージを受けています。大先輩であるおじいさん、おばあさんたちは、人生の中で二度もふるさとが荒れ果ててしまう苦しみを味わっていらっしゃるのです。私たち若者が、この町を良くしていかなくてどうします? 『若い奴らもがんばってるな』と、微笑んでもらえるように、昨日までよりももっといい、明日の町を作っていくようにしなければ。」

▼ 紹介した三人とも、20代から30代の人たちだから、もちろん戦災で焼け野原になった町の姿を実際に見てきたわけではない。でも、共通するイメージが感じられるのはなぜだろう。

まるで爆心地のような――。
空襲で焼け野原になったみたいな――。
原爆でやられた後の町のような――。

被害を受けた町には、大きな悲しみがある。
でもその上で、前を見ている人たちがいる。

被災地には人間のいろいろなものが凝縮していると思う。簡単にはことばにできないような物語ばかりだ。被災地には、魂を揺さぶられるような出会いがきっとある。

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文●井上良太

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