息子へ。被災地からの手紙(2013年3月7日)

iRyota25

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2013年3月7日の福島県双葉郡楢葉町

今回のいわき取材の宿泊場所は広野町。この2月オープンしたばかりの、復興特需対応型の簡易なホテル。広野町なんていうと、放射能は大丈夫なの?と心配かもしれないけれど、思った以上に低い。屋外で0.18μsv/hくらい。久之浜で0.14、いわき市の中心部で0.10、東京や千葉・埼玉で空間線量が高いところと比べても、ずっと低いくらいだ。しかも客室内はさらに低くて、だいたい0.05。放射性セシウムに関しては心配無用のレベルだった。

翌朝、せっかく広野町まで来たのだからと、海沿いを見て回ることにした。駐車場に並ぶ車のナンバーには「福井」と「長岡」が多い。やはり、その筋の作業関係の人が多いのだろう。もう一つ特徴的だったのが機動隊。警戒区域の検問などを行うのかな。全国各地からご苦労様。

ホテルを出て、Jヴィレッジの脇を抜けて海に向かう。去年の夏までは、Jヴィレッジのところが警戒区域のゲートだったから、ここから北側は、一般車が入れるようになってまだ半年ほどしか経っていない。だからだろうか、国道以外の道路に入ると車の数が極端に減る。道路工事の車両が時々走り去っていくくらいだ。巨大な煙突が物々しい広野火力発電所から北へ走ると、すぐに楢葉町になる。山田浜と呼ばれる海沿いの集落は、震災直後の被害の様子が、まるでタイムカプセルか何かに入れられて保存されてきたかのような状況。

流された側溝の溝蓋、ところどころはぎ取られたアスファルト。鉄筋が引きちぎられて倒壊したブロック塀。ちなみに鉄筋が引きちぎられる力がどれくらいかというと、1平方ミリあたり50キロの力。異形棒鋼D10という種類の鉄筋なので、断面積は71平方ミリ。鉄筋1本に当たり3.5トン以上の力が掛かったことになる。

かつて田んぼだった場所は表土が失われて、茫洋とした荒地と化している。そのところどころに黒いベールのような塊が点在している。車道からはぎ取られたアスファルトが、板状のまま荒地に流され、これまで2年間の風雨や激しい夏の日差しに焦がされて、でこぼこしたベール状に姿を変えたのだろう。

さらに進んで山田岡と呼ばれる地域、常磐線の木戸駅の方にも、直後の状況がそのまま残されていた。どのように津波に巻かれたのか想像できないほど破壊された自動車。田んぼに点々と残されるトラクターなどの農業機械。そして、おどろいたのが被災した消防車が、人目に付く場所にそのまま置かれていたこと。

被災自動車をまとめている場所でも、消防車の扱いは特別であることが多い。入り口から一番遠くとか、積み上げられた一般車で隠すようにしていたりとか。父さんの限られた経験からの推定だけれど、人々を守ろうとして津波に呑まれていった消防車は、町の人たちの辛い記憶につながりやすいから、また外からやってきた人の興味本位の目にさらされないように、目につきにくい場所に守られてきたのではないだろうか。

その消防車がここには、目の前にある。

そのことがね、被災した場所の片付け作業が少しずつ始まっている楢葉町では、まだ普通の時間が流れていないことを象徴しているように思えた。

関連ページ:海辺の地をゆく「楢葉町・木戸」2013年3月7日

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