3月11日14時46分18秒。東北地方太平洋沖地震が宮城県牡鹿半島沖で発生した。牡鹿半島の付け根に位置する女川町は、震源から最も近い町のひとつだった。石田志寿恵さんのお宅があった女川町清水地区は、海岸から1kmほど内陸に入った住宅地。1960年のチリ地震の津波でも被害をほとんど受けず、浸水想定区域外だった。しかし、巨大地震が引き起こした津波は、清水地区の集落よりさらに内陸1.5km付近まで、壊滅的な被害を及ぼした。大地震と津波、そして避難所から仮設住宅へ。石田さんの震災から8カ月を聞いた。
ぼたん雪が落ちて来る中、裏山に避難
去年、孫たちが関東の方に引っ越して行ったんです。1人になったら3カ月で筋力が落ちてしまって、坂道上るのも難儀になって。孫が置いていった足首に巻きつけるダンベルを付けて毎日筋トレやってたんです。それが良かった。やってなかったら地震の当日、逃げられなかったかもしれないもの。
たまたまその日はお昼にお風呂入って、ご飯食べて、ちょっと何かで外に出ようとしたところだったんです。そしたら今までに経験したことのない凄い揺れ。ガンガンガンって揺すぶられて、私は玄関につかまって必死に耐えてました。ふと見ると、お隣の奥さんが庭の鉄柵につかまって、今にも体ごと飛ばされそうになっている。とっさに掴んじゃったものの、鉄柵ごと吹っ飛ばされそうだから、どうしようみたいな顔でね。「手を離すな!飛ばされるぞ!」って、その時は声を掛けることしかできませんでした。
揺れがいったんおさまって、ご近所の人たちに声を掛けて人と車を集めました。あれだけの地震だったんだから津波が来るかもしれない。自分は自動車を運転しないもんだから、近所の奥さんの車に乗せてもらってね。でも、精神的に落ち着いていられないんですよ。車おりて川の方さ見たら、川幅いっぱいに水が上がって来るのが見えた。発泡容器とか巻き込みながらこっちに迫ってくるのがね。
「来た!津波だ」って車に乗り込んで、集落の一番高台にある家のところまで走って、そこから裏山に逃げました。何家族くらいいたかな、10カ月の赤ちゃん、3歳の子供もいてね。とにかく高いところさ逃げるんだって急な崖みたいな山を登っていきました。いっしょにいた男の人たちが「ものこの辺でいい」と言っても、ダメだ!子供に雪が落ちてこない所まで登るんだって大声で叫んでね。
その晩は、集落で一軒残った家の2階にみんなで泊めてもらいました。1階は津波でダメだったんです。とにかく寒かったから靴下でも手ぬぐいでも何でも集めてきて、ちょっとでも寒くないようにしてね。夜になっても余震がひどかったから、私が寝ずの番をして、小さい子のお母さんたちには横になってもらいました。
次の日は、みんな食べるものもないし、赤ちゃんにはミルクを飲ませなければならないから、壊れた家の中から米だの海苔だの探してきてね。まだ開けてないミルクが1缶見つかったのは有難かったね。ストーブでお湯を沸かしてミルクを作って、ご飯を炊いて。ご飯はおにぎりにしてね。地震から24時間くらいは、そんな風にして過ごしたんだよ。でもね、小さい子たちがいたから、暖かくしてやらなきゃとか、ミルクを作ってやらなければとか思ってたから、がんばれたと思うんだ。
「天国に仏」温かいお湯の貴重さ
体育館までは大した距離じゃないんだけど、車じゃ行かれなかったから、ストーブとか灯油とかみんなで担ぎあげたんだよ。ストーブがあったのはほんとにありがたかったですよ。ストーブがあればお湯が沸かせるでしょう。とにかく寒いからお湯が貴重なの。
避難所ではね、朝の4時に起き出して、ストーブにヤカンをかけて、沸くまでの間は2階に上がる階段の掃除。掃除が終わる頃、ちょうど1回目のお湯が沸く。それから夕方までずっとお湯を沸かしっぱなし。毎日そうやってお湯の番をやってました。ふつうの時じゃ想像できないかもしれないけど、それくらいお湯は大切だったんだ。
お湯を口にするとね、みんなほっとした表情になるの。「ね、天国(地獄)に仏って感じでしょ」なんて冗談言ってやったりしてね。
――食べ物はどれくらいあったのですか。
持っていけたものが少なかったからね。おにぎりって言ったって数はないから、自分の分はすぐには食べずにポケットに入れておいてね、小さい子がお腹空かせてたら「少しで悪いんだけど食べて」って言って、1個のおにぎりを小さく小さく分けて食べさせたり、車に閉じ込められて出られない人に食べてもらったり。自分の目が届いたところに対しては、そんな風にしてました。
そんな時にね、町会議員やってる人がきて、「2日も食べてないからおにぎりをくれ」って言うんです。そりゃ人間だから腹は減るでしょう。でも「そんな言い草はないでしょう。お前に食わせるものはない」って帰してやりました。みんな食べたいんだ。食べたいけどプライドがあるんだ。避難所に持ち込んだ食べ物はすぐになくなってしまって、不安だったんです。
4日目に米軍が来てくれたんだけど、そん時はほんと嬉しかったよ。ヘリで何往復もして食べ物とか運んでくれてね。次に来てくれたのは広島の人たちだったな。道路作ってくれて、食べ物も持ってきてもらって。活動が終わって帰りますって日には、去るも涙、送るも涙だったよ。
――ストーブの灯油は大丈夫だったんですか。
石油は1週間くらいはあったかな。なくなってからは役場の人が家の方から持ってきたのか、大変な状況なのに差し入れしてくれてね。役場の人の中にはね、そんないいことしてくれる人たちがいたの。ちょうどその頃かな、たまたま電話が通じた知り合いが「これからそっちさ行くけど何がほしい」っていうから、タバコをたくさん買ってきてもらって、役場の人たちに配りました。
家という囲いがなくなると、悪いものが全部出てくる
体育館に避難してすぐに悪い風邪が流行ってね、下痢とおう吐と熱。薬もないからみんなにうつって大変だった。たしか岩手の人だったかスポーツドリンクと栄養ドリンクを届けてくれていたんで、それを半々に混ぜたのを作って、みんなに飲ませて回ったんだよ。
――風邪の時には水分と栄養補給だっていいますもんね。
おかげで熱も下がったし、みんな食欲も出た。とくに避難所の事務所の人たちは全員悪い風邪を一回戦やっちゃってたからね。大きなペットボトルで作って「はい、毒薬です。どうぞ!」って毎日届けました。だって、事務所が機能しなくなったら立ち行かなくなるもの。
――避難所には炊き出しなどのボランティアは来たのですか。
いっぱい来てくれましたね。ありがたかったよ。でもね、炊き出しの時はみんな喜ぶんだけど、その反面、せっかくもらったものを捨てる人もいた。あれは絶対に忘れることができないな。食べ物なくて困ってたのに、もらって当り前って感覚に変化してしまうんだ。
みんなが一番よろこんでたのは、細川たかしと新沼謙二とマルシアが慰問に来た時だな。運動公園のトラックの芝生のところで歌ってくれたんだけど、細川さんの声は心に響いたね。
――勇気づけられるとか、元気が出るとかそういう感じですか。
いやあ、どう言うんだろうね。自分はスタンドの上の方で聞いてたんだけど、テレビで見るのと同じあの調子でしゃべったり歌ったりしてくれるのがね、不思議と心休まるの。特別だったね。ああいう気持ちは初めてでした。
――避難所暮らしだからこその問題にはどんなものがあったのでしょう。
家っていうものはね、悪いものは全部隠して、いいところだけを表に出してたんだね。体育館に避難して家という囲いがなくなって、いろいろなものが出てきました。
出てくるのは隠していた悪いものばっかですよ。ワガママ、自分さえよければいい、人の気持ちを踏みにじる。あんな風にしていた人が、実はこんなだったんだっていうことが見えてくるの。苦しい時にどう助けるかってことが、なかなか考えられないんだな。
――震災から数カ月経った頃から離婚が増加したという話もありました。
地震の前から、家に帰っても何もしなかった人だから、避難所さ入っててもやっぱり何もしない。奥さんだっていろいろ疲れているのに手伝おうとしない。「オレはイヤだ。オメエがやれ!」って平気で言えるんだから。それでいて、「退屈だ~、やることねえ」と不平ばっか垂れてる。ほら、やることならありますよ、とか声掛けるんですよ。「何やるんだ?」。体育館のまわりの草取り。「オレはいいよ~」だもの。
カタイものでもあれば、ちょっとなでて上げれば?なんて奥さんに冗談言って、その場は笑わせてるんだけど、中身は煮えくりかえるようなことが多かったな。自分の場合はさ、自分で仕事を探してでも何かしていないと、いろいろなこと思い出してしまうからさ。そうやってずっと働いてきて、仮設には8月1日に移りました。
仮設住宅で炊き出しが必要な理由
私は避難所でいつも動きまわってたから良かったと思うんだ。みんなは4~5カ月も避難所にいたもんだから、仮設に入ったってしばらくは何もできないわけ。ご飯炊くのも億劫で、缶詰とかチンして食べられるものばっか食べて、1カ月ぐらいで体調悪くした人もいたもの。
――お弁当とか炊き出しに慣れてしまうと、今日は何を作ろうっていう気持ちがなくなってしまうんでしょうか。
うん、きっかけを作ってあげないとね。だから、仮設住宅で炊き出ししてくれるのって、ありがたいわけ。だって、料理もしない人とか、家に閉じこもってる人なんかに声を掛けることができるでしょ。「炊き出しのボランティアが来てるんだけど、ちょっと人数が足りないんで手伝ってもらえませんか。野菜切りなんです」とか言って出てきてもらえるもの。
――自分でもう一度料理するようになるきっかけにもなるし、引き籠ってる人にも声を掛けることができる。
もちろんお金の問題もあります。日本中、世界中からたくさんの義援金が寄せられていますが、それが被災者にはほとんど届いていません。頂いたのは1人いくらという決まったお金だけ。仮設に入居する時に6点セットももらったけど、こたつとか食器棚とか買わなければならないものは、たくさんあるんです。仮設住宅の床はパネルを張ってるだけだから、カーペットも2重くらいにしないと音がうるさくて近所迷惑になる。いろいろお金が掛かるから、仮設で生活する準備だけで、200万円くらいもらったお金の半分近くは使ってしまってるんじゃないかな。家族が多いともっと大変でしょう。
働き手を亡くした家だと、そのお金で仮設を退去するまでの生活費をやり繰りすることを考えなきゃならない。どうやって食べていくかが切実な問題。それが現実なんです。
買い物にしてもね、この辺じゃお店なんかないから、わざわざバスさ乗って石巻の方まで買い物に行かなきゃならないんです。石巻まで行ったら片道700円くらい掛かるからね。だから、仮設に入居した今だからこそ、炊き出しとかボランティアの人たちが来てくれると、みんな有難いの。毎日のように誰かが来てくれていた避難所の頃と違って、月に1回とか2回とかに減っちゃったからね。
――仮設住宅で炊き出しのニーズがあることは、伺うまで自分もよく理解していませんでした。そういう仮設の現実はちゃんと伝えて行かなければならないと考えています。
[用語解説]6点セット:仮設住宅に入居する世帯を対象に日本赤十字社が寄贈した「生活家電セット」。洗濯機・冷蔵庫・テレビ・炊飯器・電子レンジ・電気ポットの6点。財源は、海外の赤十字ネットワークから寄せられた「海外救援金」で、国内で寄せられた義援金はこの事業には使われていない。
仮設で暮らすみんなが来年の春を明るく迎えるために
仮設の建物自体にも、いろいろ問題があったんですよ。鉄骨が外に剥きだしだったから、夏は暑くて中にいられない。寒くなったらなったで、寒過ぎていられない。国会議員さんが視察に来た時に、「あ、ちょうどいいところに民主党の先生がいた」とか冗談言って話聞いてもらって、それからずっと訴え続けてるの。夏には秘書さんに外の鉄骨を素手で触ってもらったりとかしてね。そうやって動けるだけ動いて、いろんなところに話してるから、仮設住宅の網戸やら防寒追加工事とか、玄関の雪除け追加工事とか進んだと思うわけ。
――そんな活動もされていたんですか。
私は、子供たちもみんな手が離れて身ひとつだからね。動けるうちは動きましょうって思ってやってます。国会議員の岡崎トミ子さんにはね、仮設の追加工事を働きかけてもらったけど、電動自転車30台とかも支援してもらいました。私たちみたいな普通の人間が何とかしたいと頑張ってることを、町会議員とか偉そうな人はみんな自分の手柄にしたりするんですけどね。
でもね、やんなきゃならないことは、まだまだいっぱいあるんだ。
これから、あっという間に冬になるでしょ。この冬、老人がどう過ごすのかはたいへんな問題なんですよ。私が考えているのはね、来年の春をみんな笑顔で迎えようってこと。たとえば、仮設住宅の敷地内に集会所を作りました!って言ったって、できたからいいってもんじゃないんです。集会場に出てこられない人、出ていきたいくない人もいる。そんな人たちが家に閉じこもってしまったらどうなると思う?
大切なのは、仮設で出会った人には、知らない人にでも声を掛けること。「お元気ですか。寒くなってきたから風邪ひかないように気を付けて下さいね」とか、少しでも話をするようにしています。単純なことだけど、これがほんとに大切なんだ。そうやって、孤立したような気持ちになる人が出ないようにしているんです。
――冬を乗り越えることって、外側の人間が想像する以上に厳しく切実な問題なんですね。
来年の春をみんな笑顔で迎えるためにはね、私は仕事を用意しなきゃいけないと思うんだ。たとえば、みんなで集まってミシンとか使えたらどうだろうとかね。
でも、さっき言ったみたいな状況だから、避難している人が自分でミシンを買うなんてことは無理なんです。だから、ボランティアの人にお願いしてミシンを10台用意してもらいました。それを仮設の集会所や、縫物をやりたいって人に貸し出して、11月からは火曜日の午後に手習い教室も始めました。自分の部屋に閉じこもってないで、何かを作って、それを使って発信していけるといいと考えたんです。
――目標ができるし、仮設の中で友だちも作れそうですね。
冬を乗り越えるためにお願いしたい支援
でもね、規制とかの問題もあるんです。作ったものを売れたらいいんだけど、仮設住宅のルールで、仮設の団地の中で物を売ることはできないし、それどころか売る物を作るのもダメなんだ。店を再開する上での規制もあるんですよ。仮設に入っている人の中には、自分の店を流されてしまった人もいます。酒屋さんだったりタバコ屋さんだったり。津波でやられた女川の町中には、いま商店がありません。だから、仮設店舗でもあればみんな助かるんだけど、酒屋やタバコ屋には販売規制があって別の場所では営業できないんだそうです。
――ルール上は登録した場所でなければ営業できないということですね。しかし、その場所は津波の被害で何もなくなっていたり、がれき置き場になっていたりする。
しかも、そういうお店をやってた人たちが、大人4人で仮設1部屋で生活しているんです。見てもらえば分けるけど、仮設住宅に大人4人が入居したらどうなります?地獄ですよ。座るところも寝るところもない状態になるでしょう。
もしもお店を出せたら、少なくとも昼の間は家族も息が抜けるでしょう。開いた店の隅っこの方でも借りてミシンを置かせてもらえば、そこで売る物も作れるし、みんなが集まる場所にもなる。酒とかタバコの営業許可が難しいんなら、雑貨品とかを売るだけのお店でもいい。
――お店を出すというだけで、いくつもの問題がいい方向に向かうんですね。それに集会場とは違って、人が自然に集まれる場所になりますね。引きこもった人が買い物に来た時に普通にコミュニケーションすることもできそうです。
だからね、いまトレーラーハウスなんかを貸してもらえるところを探しているんだ。
――トレーラーハウスなら大丈夫なんですか。
うん、役場に確認しました。酒やタバコの規制を抜きにすれば、基礎を打つ建物でなければお店をやっても大丈夫なんだって。トレーラーハウスじゃなくても、仮設の事務所みたいなのでもいいんだ。
――工事現場によくあるスーパーハウスのような、トラックで運べるユニットハウスでもいいんですね。
そう。外側はどんなものでもいいんだ。仮設のお店に使えるものがあれば、女川の町で商売が再開できる。そこはみんなが集まれる場所になる。とっても大切なことなんです。
――東北の厳しい冬に、どうやってコミュニティを維持するか。この場を借りて、私の方からもご支援をお願いいたします。
前に向かうことは、振り向かないこと
私はほんとはね、3月15日に関東にいる子供たち孫たちに会いに行く予定だったんだ。でも、こういう運命だったんだって思うことにしてるんです。
「前を見て歩こう」。それが私なの。いろいろ大変なこともあるだろうけど、前進あるのみなんです。
――地震の当日も、避難所でも、仮設に入居されてからもですか。
動いてないと、いろいろなことを思ってしまうから。くやしいとか、情けないとか。そういうことを思い出すのがイヤなんです。前に進もうと言いながら、くよくよしているのって、それでは前に進んでることにならないんです。
できるだけ先手を打って、いろいろな対応を考えて、この冬を仮設の団地のみんなが元気に乗り越えられるように、動き続けるんだ。それが私というものだからね。
石田志寿恵さん
34歳の時、ご主人を交通事故で亡くす。残された5人のお子さんを育て上げ、女川町で1人暮らしを始めて数カ月、石田さんは今回の震災に見舞われた。「自分は1人だから、動けるかぎりは動こう」。そんな考えで、避難所でも仮設住宅でも飛び回ってきた石田さんは、地元女川の主婦の星、希望の星だ。
編集後記
石田さんと出会ったのは新田地区の仮設住宅で炊き出しボランティアをしている時のことでした。
となりの仮設団地に住む石田さんたち主婦4~5人がボランティアとして、野菜切りなどの仕込みを手伝いにやって来てくれたのです。郷土料理の話に始まって、地元出身の中村雅俊のお決まりジョークの話、切れない包丁の話などなど、青空の下の厨房はにぎやかな井戸端会議の場に一変。明るく元気な主婦パワーに圧倒されました。そして、そのパワーは料理やおしゃべりだけでなく、町の未来に向けても注がれていることを、翌日お話を伺って知りました。石田さん、お元気ですか。その節はお世話になりました。そちらは寒くありませんか。私たちも、自分たちにできることが何なのかしっかり考えて、少しでも皆さんのお力になれるように頑張ります。(2011年11月17日~18日取材)
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