20代の青年である。神職である。福島県いわき市久ノ浜町諏訪神社の禰宜である。北いわき再生発展プロジェクトチームの会長である。地元ボランティアのまとめ役である。復興を目指すイベントの仕掛け役でもある。そのくせ、昔は田舎は面倒な場所だと思っていたとさらりと言ってのける。震災を経験してはじめて郷土愛に目覚めたとも。
ボランティアなどほとんど経験したことのなかった青年が、どのようにして今日の高木優美(まさはる)さんになっていったのか。そのヒントを、2011年3月11日からの彼の活動に探る。
[2011年3月11日午後2時46分~] 地震が発生した時には、勤務先だったいわき市の神社の付属幼稚園で、ベンチの色塗り作業をしていました。
どれくらいの時間揺れたのか分かりません。ただ地震がおさまった後、シーンと一切の音がなくなったのを覚えています。この地震は尋常じゃない。津波が来るかもしれないと思って、散乱した職場の中からテレビを引っ張り出してつけました。
地震直後、いわき市ではまだ電気が通っていたんです。テレビではやはり津波警報が出ていました。最初に目にした警報は「3メートル」。その数字にほっとしました。でもすぐに警報が10メートルに変更になったんです。自宅の神社社務所の棟の高さは、高さ制限ぎりぎりの9メートル70センチ。10メートルの津波が来たらひとたまりもありません。今すぐ自宅に帰らなければ、と久之浜に向かって、国道6号線・浜街道を北に向かいました。
[3月11日午後4時過ぎ~] 車を乗り捨てたホームセンターの駐車場で、ふわっと雪が降ったのを覚えています。
ふだんから通勤に使っている道を走りながら、考えられないことが起きているのを感じていました。いわき市の町中でも、歩道橋が30センチくらいずれています。久之浜のひとつ手前の町、四倉まで行ったところで渋滞。車が進まなくなりました。見ると道が水で濡れています。道路脇には流木が引っ掛かり、道端で泣いている女性の姿もありました。津波が国道を越えたのだと知りました。早く家に帰りたい。しかし、久之浜まで6キロほどの波立海岸のトンネル前で道路は封鎖されてしまいます。理由はわかりません。トンネルが崩壊したのか、まだ津波の恐れがあるからなのか。
とにかく車を乗り捨ててでも久之浜に帰らなければ。車をUターンして四倉のホームセンターの駐車場に入れて、そこから走って家へ向かおうと車を降りた瞬間、ふわっと雪が降ったんです。ほんの数分のことだったと思いますが、まるで花吹雪のように雪が舞ったのが印象的でした。
[3月11日午後5時過ぎ~] 山沿いの道を越えてようやく目にした久之浜は火の中に浮かび上がっていました。
海沿いの国道が封鎖されていたので、山沿いの抜け道を通って久之浜に向かいました。山道を越えた田之網という集落の辺りから、遠くに久之浜の町並みが見えました。日没後の暗くなった景色の中で、久之浜の町は火の手の中に浮かび上がっていました。
旧道は坂を下った後、国道と交差して、さらに海側に抜けていくのですが、そこから先は道がなくなりました。道だった場所には津波で流された家が押し寄せて、すき間なく道をふさいでいたのです。早く自宅に戻りたいと気が急きます。道をふさぐ家の屋根によじ登り、屋根を駆け下り、また次の家の屋根を上り、を繰り返しました。そしてようやく、自宅と諏訪神社が見えるところまでたどり着くことができました。
[3月11日午後6時過ぎ~] 「あ、大丈夫だ。家もあるワ」と声が出ました。しかし津波は実家1階に押し寄せていました。
神社へ走ると、参道に父の車が横倒しになっていました。車の中を見てみると、父が乗っていた形跡はありません。ほっとしました。父は家族とともにどこかに避難しているはずだと思いました。
建物は無事でしたが、津波は神社の敷地内に押し寄せていました。車が石碑に乗り上げて石碑ごと松の幹に引っかかり、自宅のドアは曲がり、中は津波が運んできた泥やガレキでぐちゃぐちゃでした。
[3月11日午後6時過ぎ~] 町の火の手は神社に迫り、時折ガスボンベが空中に跳び上がって爆発し、空を赤く照らしました。
家のまわり一面にガスのにおいがしていました。火の手はすぐ近くまで迫っています。火の粉が横殴りに舞っていました。そんな中、時折プロパンガスのガスボンベが空中に跳び上がって爆発し、空を赤く照らしました。考えられない光景でした。それなのに、不思議と、恐くも何ともないのです。車を置いてから6キロの距離をずっと走ってきたから、きっとアドレナリンがいっぱい出ていたんでしょうね。タバコを一服しながら、家族を探すことを考えました。可能性があるのは母の実家か龍光寺か中学校だろう。意外なほど冷静でいられました。
[3月11日午後7時20分] 家族の情報が確認できた後、何度か行き違いになり再会できたのは午後7時20分でした。
避難しているだろうと目星を付けたお寺で、家族が中学校にいることが分かりました。無事でよかったと安堵すると同時に、移動の手段である車を何とかしたいと思い、居合わせた親戚にお願いしてホームセンターまで車を回収しに行きました。山の中の裏道を走って行きましたが、道がかなり傷んでいたのを覚えています。
車を回収して中学に到着すると、家族はちょうど母の実家に向かったところ。その後ようやく午後7時20分になって、家族と再会することができました。
[3月11日午後7時30分] 服を着替えようとズボンを脱ぐと、脛(すね)の毛が剃ったようにツルッとなくなっていました。
津波被害を受けた町を走り抜けてきたせいで、着ていた作業着はヘドロ臭くなっていました。母の実家で着替えをさせてもらおうとして初めて気付いたのですが、ズボンはズタズタに切り裂かれていて、ところどころ血もにじんでいました。
不思議だったのは、脛(すね)の毛が剃ったようにツルッとなくなっていたこと。これにはびっくりしました。
[3月11日午後8時00分過ぎ] 津波警報は出ていましたが神社が気がかりで、父と2人で諏訪神社に戻りました。
ご神体に相当するご霊璽(ごれいじ)を神社に残してきたことが気がかりでならず、20時過ぎには父と2人で諏訪神社へ戻りました。火災はかなり近づいてきていて、7軒くらい先のプロパンも爆発しました。大きな津波の恐れはなさそうでしたので、ご霊璽のほか神事に使う衣装や道具類の搬出を続けました。
[3月12日未明] 3月11日の夜から12日の朝にかけて感じていたことは、うまく言葉で表現することができません。
火の粉を巻き上げて燃える町。ガスボンベが爆発するたびに赤く照らされる空。津波に洗われた町のヘドロのような臭いと、町に充満するガスの臭い。そんな状況の中で、人間の生き死にについて考えていました。
やがて、海から真っ赤な朝日が昇りました。私は太陽に向かってカメラのシャッターを何度も切っていました。この時はまだ原発のことはまったく頭にありませんでした。
[3月12日] <震災翌日、高木さんが見た久之浜の姿>
[3月13日] 全身ブルーの防護服に、防護マスクという物々しい人物が現れて、バスの時刻表を残して行きました。
[3月13日] 人っ子ひとりいない久之浜から、いわき市湯本の避難所への移動を決意しました。
その頃はもうケータイも繋がらないし、町には人っ子ひとりいない状況でした。町の人々あってこその神社です。そこで、久之浜の人が一番多く避難しているいわき市南部にある湯本の避難所に行くことにしました。しかし、私の家には犬と猫がいるのです。さすがに動物を連れて避難所に入ることはできないので、親せき筋の方の家に2週間ほど身を寄せてもらうことにしました。
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