本土から那覇・宮古島・石垣島、果ては台湾を結ぶ、「飛龍21」
(2012.10.17更新) とある連休のこと、東京に用事があった僕は山手線内を行ったり来たりしていた。その日は用事が3~4あったのだが、午後に入ってひと段落すると、ふと2時間ほど時間が空いてしまった。特にやりたいことも無かったのだが、その時点で大井町にいたので、りんかい線に乗って、それまで行ったことが無かったお台場に行ってみた。
お台場から有明あたりの海沿い1.5km程度をぷらぷら歩き、「やっぱり海風は気持ちいいなー」なんてぽけっと考えていると、不意に目に飛び込んできた船に驚いた。それは今(2012年)から4年前、石垣島へ行った時に乗った船だったのだ。名前はたしか「飛龍21」。忘れもしない、石垣島へ行った2か月後。その「飛龍21」を航行する会社が突如として倒産し、帰る予定だった船に乗れなかった!・・・という、ちょっとした波乱があったのだ。
那覇新港への苦い思い出
2008年4月、大学を1年休んで時間が有り余っていた僕は、なんとなく船で西表島へ行くことにした。その頃はまだ色々と無知で、「とりあえずこの休みを活かして行ける島へ。」程度の気軽なノリでの出発だ。行程はこんな感じ。
三ノ宮(神戸) → [青春18きっぷ] → 鹿児島 → [フェリー] → 那覇 → [フェリー:飛龍21] → 石垣島 → [高速船] → 西表島
当時、関西在住だった僕は「青春18きっぷで行けるところまで行く」というのを楽しみつつ、だらだらと西表島を目指すプランを立てた。問題の飛龍21は、当時名古屋~大阪~那覇~宮古島~石垣島~台湾を結んでいた”超”長距離航路。僕は大阪から乗ることもできたが、道中の途中下車も楽しめる青春18きっぷを優先したため、那覇~石垣島の利用にした。 また、ここでややこしいのが、那覇には港が2つあったということ!!鹿児島~那覇間のフェリーはいわゆるメインターミナルで活気のある那覇・泊港に入港す るのだが、石垣島行きの飛龍21は泊港ではなく、道のりにして2.5kmほど離れた那覇新港からの出港だった。当時、那覇も初めてだった僕にそれが理解で きるはずもなく、出港2時間前まで勘違いしていたのだ。
貧乏旅行ゆえにお金を使いたくなかった僕は、当初タクシーではなくバスを探した。しかし、那覇新港行きのバスは本数が少なく、充電が切れかけの携帯電話をカチカチいじりながら地図を頼りに歩くという、今思えばなんとも非効率 でどんくさい行動に出た。泊港を離れると街灯もほとんどなく暗い。それどころかひと気もほとんどなく、道を聞こうにもまず人がいない。観念してタクシーを 探すもタクシーも見かけない。車は時折倉庫街へ向かうトラックが通る程度である。さらに突然の雷雨。いよいよ心細くなってくる。 気が付くと僕は走り始めていた。時間にゆとりがなくなり、さらには車もバスも見当たらない。ただ那覇新港を示す看板をようやく見つけ、その方向を信じて走り続けた。西表島では2ヶ月半の滞在を予定していたので、言うまでも無く荷物は重い。雨のなかびしょ濡れになり、その重い荷物を背負って懸命に走ったのだ。時刻は19時過ぎ。出港は20時だったものの、ホームページにあった「1時間前に受付を済ませてください」という案内はもう守れない。ただ、その時はもう、出港に間に合わせることしか頭になかった。
そうして走っていると・・・、行き止まり。あれ? 那覇新港の入り口は、一見それとわからない。どうやら通り過ぎていたようだ。少し戻るとようやく那覇新港に出会えた。汗だか雨だかわからないほどのびしょ濡れ。僕は受付に謝って飛龍21に乗った。
中に入ってビックリ。その船内は想像を超えていた。(写真は日中の那覇新港)
離島航路が消えていった2ヵ月
(2012.10.18更新)
豪華!飛龍21
「うわぁー・・・。」思わず感嘆の声を漏らしてしまった。煌びやかな電飾、ゴミもほつれも見当たらないじゅうたん、案内された2等客室は相部屋ながらゆとりのある空間、そして綺麗に整えられたベッド(!)。これは様子がおかしい。これは特2等、いや1等の設備ではなかろうか。ワンフロアに大人数、ところどころにシミがあるじゅうたん、基本は雑魚寝・・・、少なくとも僕が知っているフェリーはこうだ。そう、飛龍21は良い意味で期待を裏切られたほど、非常に美しく整えられていたのである。
一方僕は走りに走って汗だく、服装は見た目を気にしていないTシャツ、人並み外れた荷物の量である。こうなるとむしろ僕がこの船に似つかわしくないとすら思えるほどだった。はっきり言ってNo.1である。船旅推奨派の僕だが、もっとも快適だった船をひとつあげるならば飛龍21である。 しかし、お客さんは少なかった。相部屋には台湾へ戻ると思われる台湾の家族一行と、自分。使ってない部屋もありそうな感じだ。「たしかに平日だしこんなものか・・・。」船のデッキで生暖かい風を浴びながら事前に購入していた缶ジュースで一服し、そんなことを考えた。
その後は、石垣島から西表島へ移動し、僕は滞在先の宿で住み込みで働き始めた。GWを迎えて忙しい日々を過ごす中、お客さんが抜け、館内清掃もひと段落するお昼休みが一番落ちつく時間だった。甘めのコーヒーをすすりながら、慣れない沖縄ローカルの番組を見ていると、ふと「原油価格の高騰云々」、「負債総額は100億円を超える云々」と、慌ただしいニュースが。社長が会見に追われ、どうもただならぬ雰囲気が感じ取れた。「あんた帰れるの?」
「はい?」 実は、同じ宿のスタッフとして働いていた姉さんに言われるまで気づかなかったのだが、この話題こそまさに、僕が乗って来たフェリーを運航する有村産業の話だったのだ。当時の僕が原油高の高等、負債総額が云々と聞かされたところで、今一つピンとこなかったのが正直なところだが、何やら会社がヤバいということはわかった。そして、一番の問題は「無期限運航休止の可能性がある」ということだった。僕の滞在予定は2ヵ月。行ったはいいがどうやって帰るんだ、という話になるのだ。このたった2ヶ月で。
まとめるとこういうことになる。1999年
さらば、有村産業
おバカ学生よろしく、ニュースをあまり見ない僕だったが、さすがにニュースにかじりつくようになった。昼ごろに届けられる八重山毎日新聞をチェックすると、その話題がほぼ一面である。貧乏旅行と言えど、ある程度働いたので日当が溜まっていた。しかし、安い船で帰るならまだしも、何の割引も適用させずに慌てて航空券を取得するようでは、手元に残るお金は雲泥の差である。僕は西表島に長期滞在したが、周辺にも竹富島、黒島、小浜島、鳩間島、波照間島、与那国島などなど。近いがゆえに立ち寄りたい島々は他にもたくさんある。できればこれら全部の島々を回った後で関西に帰りたいと思っていたが、場合によっては考え直さねばなるまい。 しかし、僕の願いも虚しく資金繰りは難しかったようで、ニュースとして騒がれ始めてわずか1週間程度の5月27日、無期限の運休が決まってしまった。あまりにもあっけない。そして運休便の1便あとの船に乗る予定だった僕も、その予定が狂ってしまったのだ。結局、その後訪れる予定だった島の数を6島から3島に減らしたが、今もなおわずかに悔いが残る。
その後、有村産業(飛龍21)が担っていた宮古・石垣、台湾航路再生を図るため、新会社の設立や事業譲渡などが画策されたらしい。しかし、各島の自治体こそ出資に前向きであったものの、沖縄県がこれに難色。本土と八重山諸島を結んでいた唯一の航路はそのまま消滅してしまったのだ。 これにより、宮古島、石垣島、およびその周辺離島へは、原則飛行機でなければ行けなくなってしまったのである。上述の那覇新港の話など、くだらない思い出も印象的な経験だった。当時、僕はお金はともかく時間を余していた学生。そんな僕には船旅がとてもとても性に合っていたのである。しかし、社会情勢に飲まれた離島航路は、こうして消滅していった。大げさな話だが、貧乏旅行の入り口が狭まったと感じてしまった。もちろん稼いでから島へ行けば済む話だが、船旅という選択肢が消えた寂しさはどうもすっきりしない。甘い話でないのは重々承知している。それでも、なんとかまた、宮古島、石垣島へ旅客船が就航する日を期待したいと思う。
飛龍21のその後
冒頭で軽く触れたが、飛龍21は売却され、東京~鹿児島~奄美群島~那覇を結ぶマルエーフェリーの船となった。外装はマルエーフェリー特有の青色が加えられたが、どこか有村産業時代の面影も残っていた。かつて資金繰りで苦しんだ会社の船だったとは思えないほど、華やかな内装は一見の価値あり!おススメだ。
(東京・有明港に停泊するマルエーフェリーの飛龍21)
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