石巻市立門脇小学校(1/5)
石巻市の南、海から約800メートルに位置する門脇(かどのわき)小学校。明治6年5月に開校した歴史ある小学校(※注)は、津波とその後に発生した火災で大きな被害を受けました。
大地震直後、教室からグラウンドに避難した子どもたちは、教員の誘導で小学校裏の日和山へ避難。児童の多くは助かりました。
小学校は地域の避難場所でもあります。子どもたちが避難したのと前後して、住民がグラウンドへと集まってきたところへ大津波が襲いかかったのです。
(注)明治5年(1872年)の学制発布を受けて、翌6年1月に開校した東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)が日本で最初の小学校とされています。同じ年に開校した門脇小学校は、日本の小学校の歴史とほぼ同じ長きにわたり、子どもたちの学び舎として地域を支えてきました。
石巻市立門脇小学校(2/5)
校舎には津波と火災の爪跡が痛々しく残っています。火災による高温にさらされたことで、建物には崩壊の恐れもあるそうです。
写真:奥野真人(株式会社ジェーピーツーワン)
石巻市立門脇小学校(3/5)
門脇小学校のスローガンは「すこやかに育て心と体」。震災直後、日和山に避難した時には、寒さに震える下級生を上級生がケアするなど、健気な姿があったそうです。早朝、門小校舎に向かって一礼してから避難先の学校へ向かう子どもたちの姿も見かけました。「がんばってほしい」とストレートに思いました。
写真:奥野真人(株式会社ジェーピーツーワン)
石巻市立門脇小学校(4/5)
校舎そのものはかろうじて残っていますが、校舎内は火災によって2階西側を除いてほぼ全焼。河北新報は石巻市教育委員会が校舎解体の方針を保護者に説明したと報道しました(2012年11月1日付ウェブ版)。保護者からは震災遺構として残してほしいとの希望もあり、最終判断は持ち越しになっているそうです。
学区の約3分の2の地域が壊滅的な被害を受けた門小では、学校の存続も危ぶまれています。
写真:奥野真人(株式会社ジェーピーツーワン)
石巻市立門脇小学校(5/5)
震災直後、門小グラウンドに避難して津波に襲われた地元の人たちは、避難所としての対応のために学校に残っていた教職員の誘導で、津波到達の直前に校舎内へ避難。大量の住宅や自動車が津波に巻き込まれて校舎に押し寄せてくるのを目にします。グラウンドは押し流されてきたものですぐにいっぱいに。
そして今度は火の手が上がります。
自動車や住宅から大きく上がった炎は、ガラス越しにも熱く感じるほど激しいものだったそうです。炎はすぐに校舎に燃え移り、津波から間一髪で逃れた人たちに襲いかかりました。
学校裏の日和山に逃げようにも、グラウンドは濁流と瓦礫で満たされて逃れようがありません。
人々は教室で先生が立つ教壇を、校舎の2階と裏山の間に橋渡しして、燃え続ける校舎から日和山へ避難することができたそうです。もしも門小に裏山がなかったら。もしも校舎から裏山までの間隔が教壇の長さより広かったら――。
避難所に指定されている場所で、火災に襲われる。
門小に避難していた人々は、今回の震災の前にはほとんど認識されることがなかった危機から、奇跡的に逃れることができたのです。
(写真上)門脇小学校の2階、3階部分を裏山から撮影(写真下)校舎のすぐそばまで山が迫る門小。山の近さが避難につながったと言われます
TEXT+PHOTO(但し書きのないもの):井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
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