2016年から2017年へ。陸前高田「うごく七夕」〜被災から変わっていく町が生きる現実であるということ〜

iRyota25

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一本松茶屋の交差点を曲がって国道340号線に入る。気仙川に沿うようにぐるっと迂回して走り、奈々切の跨線橋を越えると、目の前に長い坂道が見えてくる。陸前高田市高田町大石の坂道だ。登り切った所には市役所の仮設庁舎がある。今年の夏には県内最大規模の災害公営住宅である県営栃ヶ沢団地も引き渡しになった。坂を越えると竹駒の集落を経由して、道は一関、住田、奥州、遠野といった内陸部に続く。

この坂道の途中、左手には仮設商店街の栃ヶ沢ベースがある。その向かい、第一中学校への登り口には大石の公民館がたっている。

あの日、この集落出身のYさんは大津波の知らせを受けて内陸部から車を走らせた。どこをどう通って来たのかよく覚えていないが、この坂道を下って来た。

「ライトをハイビームにしたら、信じられない光景が広がった。ちょうど公民館の手前にガレキが押し寄せていた。見たこともない光景。町が死んだ。すべてが終わった。町が消えてしまっんだと思った」

大石の長い坂道、公民館の付近は、津波被害の境界線となった場所だった。

40代後半のYさんは、内陸部の高校に通っていた時、甲子園に出場したのが誇りだ。「高田高校が甲子園に出場したのよりも先に、オレは甲子園に行ったんだから」。高校卒業後は陸前高田には戻らず、内陸部の企業に就職した。何度も転職した。そして震災後、陸前高田に戻って来た。Yさんの自宅は大石の公民館より少しだけ高い所にある。津波を辛うじて逃れることができた家だった。

仮設商店街の栃ヶ沢ベースに入ることになったお店のそれぞれに多くの物語があるように、大石の集落の住民それぞれが、震災を契機にたくさんの物語を背負うことになった。その物語のいくつかを七夕まつりを通して紹介したい。

伝えていくこと

郵便局に勤めるSさんは家を流された。家族は無事だったものの、たくさんの友人を失った。家もない。将来のめども立たない避難所生活の中、Sさんは七夕の太鼓を叩きたいと思い立つ。「軽トラックに七夕飾りの櫓を立てて太鼓を積み込めば、七夕を続けることができるのではないか」

陸前高田という町がまるごとなくなってしまったのだ。とても言葉では表現できないくらい疲弊した高田の町の人たちへエールを送りたい、家族や自分自身を奮起させたいという思いだったに違いない。「七夕を止めるという選択肢はなかった。続けるしかないという思いだけだった。だって、ここで途絶えさせてしまったら、子どもたちの世代に七夕を伝えていくことができないだろ」とSさんはこともなげに言う。

Sさんは大石のまつり組の大将であるTさんに、軽トラでの七夕の話を持ちかけた。Tさんは、そんなみっともないことは出来ないと断った。「でもな、太鼓を乗せるに一番なのが残っているだろう」

「まさか七夕の山車ですか?」Sさんは信じられない思いで問い返した。大石の公民館は津波を被った。山車の倉庫も半分の高さまで浸水した。山車は津波の泥水で半壊状態だった。それでも自動車修理工場をやっていたTさんには自信があった。「この山車は動く。オレが直して震災のこの年も七夕を続けるんだ」

Tさんはその頃のSさんのことをこう話す。「震災前は太鼓を叩きたいばかりのおまつり小僧だったのにな」。震災後Sさんは、太鼓はもちろん、飾り付けも山車の運行も、まつりの翌日のゴミ拾いまでやる大石まつり組の新しいリーダーになった。次の世代に七夕を伝えていきたいという思いが、Sさん自身を変えたのかもしれない。

大石の七夕山車は復活した。2011年の七夕では3基の山車が高田小学校のグラウンドに集うことができたが、津波を被った中から復活した山車は大石の山車1基だけ。

震災後6回目となる七夕を、しかも被災した山車で迎えた大石七夕祭組。この山車の飾り付けが、そして響き渡るお囃子の音色が、震災後の復旧・造成工事で土色一色の町に照らし出したものは、次の世代につないでいくという信念に他ならなかった。

振り返った先にある現実

そんな話を聞いたのは、震災から数年後の1月、虎舞の時だ。大石の虎舞は七夕とワンセット。虎舞で集めたお花(ご祝儀)はそのまま七夕の製作費に使われる。太鼓やら虎舞のお頭やらを積み込んだリヤカーを引いて、大石の急坂を登っていると、虎舞のメンバーの面々が坂の下に広がる町を振り返る。何度も何度も振り返るのだ。

坂道を上に向かって進んで行くその目に見える光景は、震災前のものとそんなに大きくは変わらない。だから振り返る。

振り返ったその先に、昔ながらの風景、小さな家々が立ち並ぶ高田の町が広がっているのではないかと。

しかし坂道から振り返ると、そこにはかさ上げ工事が進む高田の現在の、そして現実としての「いま」の町が広がっている。一面に土色一色の世界。かつてそこに人々のくらしがあったことが、簡単には想像できないような世界。しかし、リヤカーを引っ張るTさん、獅子を舞うSさん、笛のリーダーであるYさんたちには、かつての町並みが見える。何十年も生きてきたその町の景色をそこに見ずにはいられない。

この坂の途中、公民館の裏手に新築された家の前で最後の門付が始まる。Yさんの笛の音が大石の坂道にこだまする。

2016年夏、震災後6回目の七夕の準備が始まった。震災前は町内総出で行って来た飾りづくりだが、震災後にはSさんやYさんたち、町内では若手の有志数名を中心に行われるようになった。震災は七夕のあり方をも変えてしまった。

震災6回目の七夕まつり

ところで、七夕の飾り付けは各まつり組の企業秘密。まつりの当日、「どうだ!」と見せ合うのが醍醐味だから、飾り付けの色やデザインはトップシークレットだ。そんな飾り付け製作が最終盤に近づいた頃、地元の新聞記者がやってきて飾り付けの写真を撮影していった。まつりの3日前までは掲載しない約束だったが、5日前くらいの紙面にカラーででかでかと紹介されてしまう。しかしメンバーは、それはそれでまんざらでもない様子。むしろ紙面を見ながら話題になったのは、記事中に紹介された名前の後のカッコ書きの数字のことだった。

「新聞を見てあらためて思ったんだが、オレ、もう40代だったんだな。震災の年はぎりぎり30代だったんだけどな」

まつりを通して5年という月日を実感した瞬間だった。

まつりの飾り付け準備の最中も、お囃子の練習が始まってからも、公民館に集う人たちは決まって玄関から町の様子を眺めながら語り合った。「来年にはかさ上げがこの公民館のところまで来るんだよなあ」と。

高田の町の中心地からは離れた、坂道の途中にある大石の集落。高田の町を呑み込んだ津波の高さにほぼ匹敵する高さまで土が盛られていくが、その先端はあの日、津波が押し寄せた大石公民館のところまで達することになる。坂の途中にあった公民館は、かさ上げが完成した時には坂の登り口になる。そのことを、まつり準備の参加者たちは繰り返し繰り返し、何度も何度も語り合うのだった。

8月7日、いよいよ七夕当日がやってきた。かさ上げ工事が佳境を迎えたこの年、高田の七夕は大きな変化を強いられた。例年なら、各まつり組の山車が一所に会して、お囃子や飾り付けを競い合うのが恒例だったが、この年はまつり組が各自別個のルートで運行することになったからだ。せっかく工夫に工夫を重ねて来た山車の飾り付けを、他のまつり組に見てもらうことができない。パワーアップした太鼓や笛の音を披露することも叶わない。それでも大石の七夕まつり組には、今年だからこそしっかり七夕をつとめたいとの強い思いがあった。それは、震災以前からずっと七夕山車が運行して来た道が、かさ上げ工事によって埋められてしまうこと。人々のくらしや建物はなくなってしまったが、それでも辛うじて残されて来た思い出の道がなくなってしまう前の最後の七夕だということ。

その様子を記録したいと東京のテレビ局のカメラが山車の最上階に上がった。カメラに収められるのはかさ上げされた土地の谷間を進む山車からの景色。人っこ一人いないかさ上げの土地と、熱気溢れる山車のコントラスト。県外の人たちには受ける絵柄なのだろうか。

地元の酒蔵「酔仙酒造」跡地の休み所からの出発に際してSさんがまつり組全員に声を掛けた。「この道を大石の七夕が運行するのはこれが最後です。力一杯、思いを込めて行きましょう」

Sさんは太鼓を離れ、引き綱の先頭に立って「よいやさー」のかけ声をふり絞った。七夕山車は大石の坂道を喘ぐように登っていく。太鼓を叩きたくて七夕復活に動いたSさんが、太鼓ではなく山車を引っ張り上げてる音頭をとる。よいやさー! よいやさー!

かさ上げ工事が進むということはいいことなのか、それとも寂しいことなのか。町が変わっていくということはいいことなのか、それとも悲しいことなのか。そんな問いかけなど、変わっていく現実を前にすると無意味なのかもしれない。私たちは現実の中で生きている。そして、現実の中を生きながら寂しさや悲しさを噛み締めている。

七夕から2週間後、大石まつり組のメンバーによるバーベキューが公民館前で行われた。七夕が終わればもう夏も終わりと言われるが、今年はお盆を過ぎても真夏のような日が続いていた。昼前に始まり夜更けまでの長い長いバーベーキュー。お酒が回ったYさんがぼそっと呟いた。「オレ、早くこの町を出たいんだよな」

誰もYさんの言葉に異を唱えることはできない。それは震災に見舞われた町だから、というだけの理由ではない。

高校卒業後、町を出て暮らして来たYさんは、自らを風来坊だからと言う。偉丈夫で男前なのに独身なのは、ひと所に縛られることを嫌うからなのかもしれない。酒席では後輩たちから「早く結婚して下さい」と催促されるが、話を逸らしてばかりいる。

それもこの町。この町だけにとどまらない現実。Yさんはわたし自身の笛の師匠でもあるのだが、だからといって町を出たいという彼の言葉に反論することはできなかった。

公民館の玄関前のテントからは、かさ上げが進む町が見渡せた。「来年の七夕はどうなるんでしょうね」とSさんが言う。「いまオレたちがいるこの場所から、町の中心までが真っ平らになるんだな」とTさんが、これまで何度も話して来たことを繰り返す。「坂を登ることなく七夕を運行できるってわけか。どんな感じなんだろうね」と誰かが言う。「そりゃ楽になるさ」と別の誰か。そして誰も言葉を継げなくなる。

Yさんがぽつりと言った。「来年はきっと、七夕の山車が全部集結できるんだろうな」

2017年の追伸

1軒の建物すらない、まだ誰も住んでいないかさ上げの大地が夜空に照らされていた。

2017年、その場所に中心市街地という名のまったく新しい陸前高田の町がお目見えするということは誰もが知っている。しかし、この町がどうなるのかは誰にも分からない。

ひとつだけ確かなのは、祭りの場に集った面々、子どもたちも含めてこの場にいるすべての人たちが町をつくっていくということ。ここにいる人たち抜きには、どんなに美しい建物がつくらていったとしても、陸前高田は復活しないということ。

2017年、東日本大震災で被害を受けた東北沿岸部の多くの地域で、新しい市街地がいっせいに立ち上げられる予定になっている。真新しくて美しい建物、今後100年の津波に大しては大丈夫とのふれ込みの防災施設、オープニングでは東京から駆けつける華やかゲストたちによるステージ。

しかし、町は建物によって構成される構造物なのではなくて、人と人のつながりによって形づくられるものだ。あした、あさって、しあさって、数週間後、数カ月後、3年後、10年後……

高低差が感じにくくなっているであろう大石の坂道から、町を見下ろしながら、あすを語るのはどんな人たちなのだろうか。その頃には、大石の坂から松原の緑が再び見渡せるようになっているのだろうか。

2017年、私たちは未来につながる道の途中に立っている。

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