比較的流れている北行き方向に車を出すと、反対車線では路駐した車の運転手同士で言い争いも起きていた。出勤途中で注意報が警報に切り替わり、学校からは子どもを迎えにくるようにとの緊急メールが入り、職場に断った上で学校近くまで戻ってきたら大渋滞。路側に車を停めたら別の車からクレーム、そして言い争い……。
おそらくそんな状況だったのだろう。イラ立ってしまう気持ちも理解できる。震災を経験した土地であっても、いざという時には混乱は発生するのだ。これが災害を経験したことのない地域だったらどうだろう。想像するだに恐ろしい。
【事実5】スマホに寄せられたメッセージのありがたさ
このままコンビニの駐車場にいると、何かあった時に逃げられなくなる。そう考えたのがコンビニを離れた理由だったが、駐車場を出たのとほぼ同じタイミングでメールとSNSに着信があった。とはいえとにかく避難の途中だから確認するのは後回しにして、三陸道を目指した。
三陸道に向かったのは、東日本大震災の時、町なかの道路が寸断されて身動きもできない状況の中、海岸から離れた山沿いを走る三陸道を徒歩で仙台から石巻まで逃げた人の話や、三陸道の盛り土が津波を堰き止めたといった話を思い出したからだ。多賀城から三陸道に乗って、松島海岸からずっと山の方に入った場所にある春日パーキングエリアに二次避難することにした。
春日PAはほぼ満車の状態だった。駐車場に入ってスマホを確認すると、「いまテレビで多賀城の川を遡ってる津波の映像が放送されている。高台にいるのならそこから動くな。絶対に低い方に行くな」という内容のメッセージが数件入っていた。ありがたかった。
でも自分はすでに「動くな」と言われた場所から動いている。感謝の言葉に申し訳ない気持ちも含めて、より安全な場所に移動したことを伝えた。
【事実6】貸し切りバスは予定を変更することなく
三陸道とはいうものの、春日PAは山の中。海の近くがどうなっているかなど目で見て確かめられるような場所ではない。周囲は森の木々に囲まれて、野鳥の声がのどかだった。そんな場所まで避難してはじめてライターとしての本能みたいなものが少し疼いた。「津波の状況をこの目で見ておきたかった。おそらく大した高さの津波ではないのだろうから」と。
「絶対に低い所へ行くな」と強い口調でアドバイスしてくれた人は、わたしがどんな人間なのか、よく理解してくれている人なのだと改めてありがたく思った。メッセージを見たその時は、「この状況で津波を見に行くなんてありえないだろう」と、内心で口を尖らせたりもしていたのだ。
伝わることもない反省も含めて、野鳥の鳴くこの場所でしばらく待機することにした。レストランでご飯も食べた。時間帯としては朝食なのだが、がっつり定食をご飯大盛りで食べた。いろいろあって疲れていたのかもしれない。
腹ごしらえをして考えた。この後、今日のうちに陸前高田に入らなければならない予定がある。どうするか。三陸道は南三陸町まではつながっているが、そこから先は海沿いの国道45号線を走ることになる。45号線の標高の低い場所をアタマの中でピックアップする。戸倉からホテル観洋の手前までの箇所、志津川の町なか、志津浜のあたり、歌津の伊里前、本吉の小泉あたりで数カ所、大谷海岸、気仙沼のバイパスに入っても案外標高は低かったなとか、陸前高田の気仙大橋付近は標高4メートルくらいしかなかったのではとか。
リアス式海岸を縦に通る海沿いの道は、半島部分を乗り越えるためにアップダウンが大きい。津波の危険がある際には、アップはいいがダウンする部分の標高の低さはとっても危ない。
そんなことを考えながら、この先の行動をあれこれ考えていると、PAに何台もの観光バスが入ってきた。
「津波警報が出されているから避難してきたんだろう」と当然のことのように考えていたら、10ほどするとお客さんはどんどんバスに戻っていく。「まさかこれから出発するわけではないだろう」と思いつつ、バスのドア前に立つガイドさんに話しかけてみたら、
「南三陸のお寺さんの落慶法要に来たんですよ。津波警報か何か出てるんですって? さっきラジオで言ってましたね〜。訪問先の方でもう準備できているってことなんで、これから出発します〜」みたいに言う。
津波警報が出ている間は、海の近くに行っちゃダメですよと意識して強く言うと、ツアー会社の社員らしき人がガイドさんの背中を旗の棒で突いて、そのままバスは出発していった。バスのナンバープレートは中部地方の日本海側の県のものだった。
強く言ったつもりだったが、もっと強く言うべきだったのではないかと後悔した。でも、そんな自分自身、仙台港で1.2メートルだった津波が、人を呑み込むような巨大津波になるとは思っていなかった。強く止めることができなかったのは、きっとそんな気持ちがあったからだと思う。
【事実6】警報の日、ショッピングモールは大賑わい
いったん出された警報は、お昼前後にはすべて解除された。春日PAで時間つぶしした後、石巻のICの脇にある大規模なショッピングモールに立ち寄ると、駐車場は順番待ちするほど。駐車場から店内に向かう人たちの中には、平日なのに親子連れがたくさんいた。パパとママの間で腕にぶら下がってる子、肩車してもらっている子、パパとママの周りをくるくる走り回っている子……。
津波警報で仕事が休みになったのだろう。パパもママも私の学校もお休み、というわけで時ならぬ休日となった結果、ショッピングモールが大盛況となったというわけだ。
生命を守るため、「てんでんこ(親も子も関係なく、てんでばらばらにとにかく逃げるという意味)」で逃げることも踏まえて出された津波警報が、転じて家族団らんの機会を提供しているという、結果としてはいいことなんだろうが、皮肉な結末。しかし考えてみれば意外と深い所につながっていきそうにも思える現象だった。
津波警報は出されたものの大きな被害につながることはなく、地震から約6時間後には警報は解除。そして人々は家族団らんの時を楽しむ。悪いことじゃない。でも無批判にいいことだということも到底できっこないと思う。
【事実7】牡鹿半島の浜でも右往左往
あの日からだいぶ経ってから聞いた話。石巻市の牡鹿半島は、津波の最大高さや地震による地盤沈下の最大値が頻繁に測定される場所。典型的なリアス式海岸で、半島は南側も北側も深く切れ込んだ海岸線が連なる。そして半島の集落をつなぐ道はアップダウンを繰り返し、浜辺では海面とほぼ同じ高さまで下り、集落と集落の境界付近では車のエンジンが息を切らすほどの急登となる。
そんな牡鹿半島の集落であの日、11月22日はどんな状況だったのか。
「石巻から娘さんが迎えにきて、町まで連れて行ったってこともあったんですよ。信じられないことですが」
牡鹿半島の集落で支援活動をしている知人は教えてくれた。「仮設住宅でも自主再建した家でも、ここでは家は高い場所にあるから安全なんです。でも、ここから石巻まで行くとなると、途中で津波のリスクがある場所をどれだけ通っていかなければならないことか」
「ここにいるのが一番安全なんです。それなのに、津波警報が出された後、半島を縦断する道を石巻方面に向かう車、半島の先端方面に向かう車、どちらも普段以上の通行量でした」
津波で家財を流され、家族を失った経験を持つ人たちでも混乱してしまう。右往左往してしまう。
教訓を持っているはずの人たちの惑い。あの長い揺れを感じた時、おそらく被災地の人たちは5年9カ月前の記憶が呼び覚まされてしまったのかもしれない。
【事実8】避難すらしなかった人たち
宮城県では津波警報に引き上げられた。しかし、宮城県気仙沼市と接している岩手県陸前高田市に出されていた津波に関する情報は注意報のままだった。それでも陸前高田市では、長く揺れた地震と津波注意報の発令で、避難を行った人も少なくなかったらしい。
しかし、地元の人たちと世間話がてら尋ねてみると、新聞紙上の公式見解とは違った本音がにじみ出す。「避難? しなかったよ。だって大した揺れじゃなかったもの」「形だけは避難してみたけど、だいたい私んち高台だから避難する必要はないのよね」といった言葉も少なくなかった。
「大きな地震、あるいは揺れが長く続く地震=津波に警戒」ということは、身にしみてどころか骨までしみてよく分かっている。しかし反面、5年9カ月前の地震によって奪われた生活の基盤を取り戻すためには、「ちょっとくらい揺れたからって、仕事を放り出すわけにはいかないでしょ」という事情もある。
そんな話を聞いて、多賀城の高台のコンビニで、防災無線の声と住宅建築工事の音が、同じ空気を揺さぶっていたのを思い出した。
避難は命がけ。生活もまた命がけ。お遊びで避難するなんてバカなことはできぬ。といって、どれだけの津波が来るのかも分からない。
聞いた話とその実感。逃げた人、逃げなかった人それぞれの考え。どちらも分かる。分かるけれども、最終的にはてんでんこ。
【事実9】呼び覚まされた記憶
私は東北で東日本大震災を経験してはいない。遠くは慣れた場所で揺れを経験し、テレビの映像などでその被害を目の当たりにしただけだ。それでも、津波に対する感覚が少し変わった。
あの長い揺れが引き起こす恐怖。あの日、長く揺れる地震は、たとえ揺れが小さくても大きな津波を引き起こすことがあるという教えを座に思い出させた。とっさに車に向かって走り、とにかく逃げようと行動したのは、これまで体感したことのないほど長い揺れの不気味さが、知識として知っている大震災の悲惨に結びついたからだと思う。
しかし、振り返って思わずにはいられない。あの揺れを感じた時、東日本大震災で修羅場としか言いようのない世界を目の当たりにし、経験した人たちは、どんなイメージを想起したのだろうか。
敢えて言う。結果としてはたかが1.2メートルばかりの津波。それでもわたしは心底から恐怖し、命からがらの避難行動をとった。生き延びようと真剣に思った。あの日を境に、それ以前とそれ以後とで考え方まで変わったほど。
2011年のあの日を経験し、それからの日々を生きている人たちにとって、地震や津波に対するおそれがどれほど大きなものであるのか。私たちはその思いを共感することができるのだろうか。
生まれて初めて津波警報に身の危険を感じたことで、3月11日のことを経験した人たちの心の奥にある深い淵を、ほんのわずかだけだが覗き込むことができたかもしれない。知り得たとしてもそれは千万分の一くらいなものなのかもしれないが。
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