その朝、わたしは仙台市の隣の多賀城市にいた。前の日に鹿島神宮で「どうかこれ以上、地震や天災で人々が苦しみませんように」と願をかけた後、歌枕として有名な「末の松山」の写真を撮影するために、多賀城で夜明けを待っていた。
三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)
東歌「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(古今和歌集)
など数々の和歌に歌われた末の松山。海から少し離れた小高い丘にある松を波が越えることない(はずの場所)として、歌の題材にされてきた旧跡。貞観地震で津波が丘を越えることがなかったと伝わるこの場所には、東日本大震災の時にも住民が避難してきたという。津波がこの丘を越えることはなかったものの、「海のない市」である多賀城市の平地部が、仙台港から川をさかのぼってきた津波によって大きな被害を受けたことは、多賀城市役所で防災業務に携わってきた人から聞いて知っていた。
【事実1】車で避難したことを意識していなかった
この朝は、ちょっと早く到着し過ぎた。あたりはまだ暗く、撮影できるまでまだ30分くらいは掛かるかなあと思いながら、末の松山から徒歩2分ほどの場所にある、こちらも歌枕として有名な「沖の井」のほとりでぼんやりしていた。午前6時少し前、カタカタと小さな揺れがほんの数秒のうちに増幅されて、沖の井の鉄柵がガタガタ音を立て始めた。
地震だと思う間もなく、立っていても分かるくらいに揺れが大きくなった。ちょっとした地震なんてものは、ガタガタッと揺れるやすぐにおさまるものだが、この時の揺れはすぐには収まらなかった。揺れ始めて5秒か10秒か、どれくらいの時間が経ったのかは分からない。ただ、「長い」と感じた。直感的に何かを思った。最悪のケースも考えた。この地震は長い。長く揺れる地震は津波を起こす可能性がある——。
アタマの中でそんな因果関係がつながった瞬間、わたしは近くの駐車場に停めた車に向かって走っていた。津波が来るかもしれない。すぐに逃げなければ。
車のドアを開けた頃にはサイレンが鳴り始めた。エンジンをかけて駐車場を飛び出す。車のウインドウの外側で「すぐに逃げてください。周りの人に声を掛けて避難してください。率先して避難してください」との防災無線が繰り返えされていた。
こんな時に限って……、東北の沿岸部はあちこち回っていたものの、多賀城市はいつもほとんど素通りするばかり。まったく土地勘がない。どこに逃げたらいいのか、まったく予備知識なしでの避難だった。
とにかく駅の方へ向かう。信号も何も無視するような勢いで走っていく車が数台いたので、その後を追って標高の高い方へと走る。「ヤバい、オレ、車で避難している」と気づいたのは、猛スピードの車を追っている最中だった。でもまだサイレンが鳴り始めたばかり。しかも早朝だったから道は空いていた。避難渋滞なんて考えられない状況だったので、そのまま車で避難し続けた。
末の松山の名跡があるくらいだから、多賀城は古い町。町並みはともかく道は入り組んでいる。高台へ上っていく道だと思ったら、下ったり、くねったり。もはや猛スピードで先行していた車の姿はなかった。それでもとにかくできるだけ、高い所へ高い所へと車を走らせる。
車を走らせながら周囲のビルやマンションの屋上が見えるくらいの高さまで上がってきたのを横目で確認する。これくらい上がればたぶん大丈夫だろう。そうして車を停めたのが、多賀城市高崎の高台のコンビニの駐車場だった。
車で避難したことの後悔? とっさのことでそんなものは感じる余裕などなかった。土地勘のない場所で、しかも平野部。とにかく安全な場所へいち早く避難するには車しかないと思った。というか、正確には逃げようと判断した瞬間、車以外での避難はアタマの中になかった。たまたま早朝で、しかもサイレンとほぼ同時に走り出したから渋滞に巻き込まれることがなかったのかもしれないが、車で逃げて正解だったのだと、気持ちが完全に落ち着くまでの間、自分の選択を疑う考えすらなかった。
【事実2】当初は多くの人が津波は大したことないと思っていた
車を停めたコンビニにの駐車場にはすでに、地震を機に避難してきたと思しき車が何台かいた。しかし店内で買い物をしている人たちは、まったくの日常そのもの。朝食のパンとか、出勤に控えて昼のお弁当や500ミリリットルのペットボトル飲料を買い求めているだけだった。
そんな姿を目にしているうち、「津波は来ないんだ」という何の根拠もない感覚に染まっていくのを感じた。万が一を考えて、ラジオやSNSで駐車場に停めた車の中で情報収集した。
ラジオのアナウンサーは感情を込めて津波の危険を繰り返し訴えていたが、伝えられる内容は同じものの繰り返しだった。遠く離れた首都圏や東海地方の知り合いからは、「早く高台に逃げろ」「避難しているのならそこから動くな」「お前のことだから津波を見に行きたがることだろうが、絶対に海に近づくな」といった情報&アドバイスが送られてきた。
福島県沿岸部に津波警報。その他の地方には津波注意報。津波警報は高さ1メートルから3メートルの津波の恐れがあるという意味。津波注意報が注意喚起する津波の高さは1メートル未満。ラジオから伝えられる警報・注意報はしばらくそのままの状況だった。
揺れから1時間ほど経った午前7時過ぎ。駐車場に停めた車のラジオが「東日本大震災のときのことを思い出してください。早く高台に避難してください」と訴える続ける車窓の外には、小中学校に登校する子どもたちの姿が目立つようになった。コンビニの隣の住宅地では建築業者が集まり始める。コンビニのある高台は新興住宅地みたいで、あちこちで住宅の建築工事が進められている。おそらく津波被害から安全な場所として、この高台で建築ラッシュとなっているのだろう。7時を少し回った時間なのに、クレーンの音も聞こえてくる。もちろん防災無線の放送も続いているが、スピーカーが遠いことと、周辺の車や建築工事現場の音でかき消されて、内容を聞き取ることはできない。
車窓の外では、犬の散歩をしている人が目立つ。いったい何人、何組いたことだろう。
早朝の地震の後、今日の仕事あるいは学校をどうするか。仙台の隣町の多賀城で、多くの人たちが選択したのは「津波が来るとしても大したことはないだろう。まだ注意報でしかないのだから、仕事も学校も通常通りだ」という判断だったようだ。
子どもたちはいつものように近所の子同士が連れ立って、おしゃべりしながら坂道を下って学校へ向かう。グループではなく1人で登校していく子もいる。自転車で走り抜けていく子もいる。すべてが日常の光景なのだろう。
しかし、車窓の外でそんなあまりにも日常的な景色が繰り広げられる中、ラジオのアナウンサーの声がひときわ高くなった。「仙台港で津波の高さ1.2メートルを観測!」
宮城県沿岸部に出されていた津波注意報が、津波警報にグレードアップされた。現に1メートルを越える津波が観測されているのだ。注意報のままでは済まされない。
そんなラジオ放送が聞こえる一方、坂道を下って登校していった子どもたちが高台に引き返すなんてことはなかった。それどころか、警報に引き上げられた中でも、坂を下って登校していく子どもたちの姿が多数見られた。
【事実3】テレビがなければネットの同時配信
7時前から津波到達のニュースがラジオからは繰り返されていた。テレビでは津波到達の様子を画像で伝えていたようだが、あいにくテレビ放送を見ることができない車だった。
「たしかに津波が到達している様子が見られます」などとアナウンサーが叫んでも、絵が見えなければどれほどの切迫度なのかよく分からない。
そうこうするうちSNSで、NHKのニュースウェブでテレビの同時配信をやっていると知らせてくれた友人がいた。ありがたかった。
ありがたかったというのもそうなのだが、知らせてもらうまでそんなことすら思い至らなかったこともまた大きな驚きだった。これまでどこにいても地震速報が流れると、気象庁、防災地震WEB、NHKニュースウェブなどいくつものソースから情報を集めるようにしてきたし、NHKのニュースウェブで動画配信が行われることも知っていた。知ってはいたのだが、いざ自分が当事者となってしまうと、当たり前のことがすっぽり抜けてしまう。車のモニタが故障で見えないからテレビを見ることはできないと思い込んでしまっていた。
自分では冷静なつもりでいたが、まったくそうではなかったということだ。
たとえどんなに当たり前のことであっても、友人知人からのちょっとした情報で「あっ」と気づくことができる。気づくことで少なからず自分を取り戻すことができる。
混乱時には、友人知人からのちょっとしたアドバイスが効くのだと身にしみた。
【事実4】子どもたち引き取りによる混乱
タイミングが悪かったとしか言いようがない。津波注意報が警報に格上げされたのは、子どもたちを学校に送り出した後。お父さんやお母さんたちも職場に向かう車の中で警報発令を知ることになる——。今回、宮城県での津波警報発令はそんなタイミングだった。
コンビニの駐車場で待機しながら外の様子を見ていると、7時台には人や車の流れは坂を下っていく方向が圧倒的だった。人の流れは登校、出勤だった。ところが注意報が津波警報に引き上げられてしばらくすると、坂の下から上への車の流れが目に見えて増えた。
コンビニ前の道路は、坂を下っていく車と上ってくる車が錯綜し渋滞が発生する。さらに子どもの引き取りのためにやってきたと思しき車が何台も路上駐車するものだから、道路は大混乱になった。
子どもたちの引き取りはどうするんだろうと気をもんだり、いくら何でも路駐はひどいなあなどと非難めいたことを考えたりしながらコンビニの駐車場の一番端、いつでも外に出られるような場所に車を停めていたのだが、いよいよコンビニ前の道路の混乱がひどくなってきたので、この場所を離れることにした。
比較的流れている北行き方向に車を出すと、反対車線では路駐した車の運転手同士で言い争いも起きていた。出勤途中で注意報が警報に切り替わり、学校からは子どもを迎えにくるようにとの緊急メールが入り、職場に断った上で学校近くまで戻ってきたら大渋滞。路側に車を停めたら別の車からクレーム、そして言い争い……。
おそらくそんな状況だったのだろう。イラ立ってしまう気持ちも理解できる。震災を経験した土地であっても、いざという時には混乱は発生するのだ。これが災害を経験したことのない地域だったらどうだろう。想像するだに恐ろしい。
【事実5】スマホに寄せられたメッセージのありがたさ
このままコンビニの駐車場にいると、何かあった時に逃げられなくなる。そう考えたのがコンビニを離れた理由だったが、駐車場を出たのとほぼ同じタイミングでメールとSNSに着信があった。とはいえとにかく避難の途中だから確認するのは後回しにして、三陸道を目指した。
三陸道に向かったのは、東日本大震災の時、町なかの道路が寸断されて身動きもできない状況の中、海岸から離れた山沿いを走る三陸道を徒歩で仙台から石巻まで逃げた人の話や、三陸道の盛り土が津波を堰き止めたといった話を思い出したからだ。多賀城から三陸道に乗って、松島海岸からずっと山の方に入った場所にある春日パーキングエリアに二次避難することにした。
春日PAはほぼ満車の状態だった。駐車場に入ってスマホを確認すると、「いまテレビで多賀城の川を遡ってる津波の映像が放送されている。高台にいるのならそこから動くな。絶対に低い方に行くな」という内容のメッセージが数件入っていた。ありがたかった。
でも自分はすでに「動くな」と言われた場所から動いている。感謝の言葉に申し訳ない気持ちも含めて、より安全な場所に移動したことを伝えた。
【事実6】貸し切りバスは予定を変更することなく
三陸道とはいうものの、春日PAは山の中。海の近くがどうなっているかなど目で見て確かめられるような場所ではない。周囲は森の木々に囲まれて、野鳥の声がのどかだった。そんな場所まで避難してはじめてライターとしての本能みたいなものが少し疼いた。「津波の状況をこの目で見ておきたかった。おそらく大した高さの津波ではないのだろうから」と。
「絶対に低い所へ行くな」と強い口調でアドバイスしてくれた人は、わたしがどんな人間なのか、よく理解してくれている人なのだと改めてありがたく思った。メッセージを見たその時は、「この状況で津波を見に行くなんてありえないだろう」と、内心で口を尖らせたりもしていたのだ。
伝わることもない反省も含めて、野鳥の鳴くこの場所でしばらく待機することにした。レストランでご飯も食べた。時間帯としては朝食なのだが、がっつり定食をご飯大盛りで食べた。いろいろあって疲れていたのかもしれない。
腹ごしらえをして考えた。この後、今日のうちに陸前高田に入らなければならない予定がある。どうするか。三陸道は南三陸町まではつながっているが、そこから先は海沿いの国道45号線を走ることになる。45号線の標高の低い場所をアタマの中でピックアップする。戸倉からホテル観洋の手前までの箇所、志津川の町なか、志津浜のあたり、歌津の伊里前、本吉の小泉あたりで数カ所、大谷海岸、気仙沼のバイパスに入っても案外標高は低かったなとか、陸前高田の気仙大橋付近は標高4メートルくらいしかなかったのではとか。
リアス式海岸を縦に通る海沿いの道は、半島部分を乗り越えるためにアップダウンが大きい。津波の危険がある際には、アップはいいがダウンする部分の標高の低さはとっても危ない。
そんなことを考えながら、この先の行動をあれこれ考えていると、PAに何台もの観光バスが入ってきた。
「津波警報が出されているから避難してきたんだろう」と当然のことのように考えていたら、10ほどするとお客さんはどんどんバスに戻っていく。「まさかこれから出発するわけではないだろう」と思いつつ、バスのドア前に立つガイドさんに話しかけてみたら、
「南三陸のお寺さんの落慶法要に来たんですよ。津波警報か何か出てるんですって? さっきラジオで言ってましたね〜。訪問先の方でもう準備できているってことなんで、これから出発します〜」みたいに言う。
津波警報が出ている間は、海の近くに行っちゃダメですよと意識して強く言うと、ツアー会社の社員らしき人がガイドさんの背中を旗の棒で突いて、そのままバスは出発していった。バスのナンバープレートは中部地方の日本海側の県のものだった。
強く言ったつもりだったが、もっと強く言うべきだったのではないかと後悔した。でも、そんな自分自身、仙台港で1.2メートルだった津波が、人を呑み込むような巨大津波になるとは思っていなかった。強く止めることができなかったのは、きっとそんな気持ちがあったからだと思う。
【事実6】警報の日、ショッピングモールは大賑わい
いったん出された警報は、お昼前後にはすべて解除された。春日PAで時間つぶしした後、石巻のICの脇にある大規模なショッピングモールに立ち寄ると、駐車場は順番待ちするほど。駐車場から店内に向かう人たちの中には、平日なのに親子連れがたくさんいた。パパとママの間で腕にぶら下がってる子、肩車してもらっている子、パパとママの周りをくるくる走り回っている子……。
津波警報で仕事が休みになったのだろう。パパもママも私の学校もお休み、というわけで時ならぬ休日となった結果、ショッピングモールが大盛況となったというわけだ。
生命を守るため、「てんでんこ(親も子も関係なく、てんでばらばらにとにかく逃げるという意味)」で逃げることも踏まえて出された津波警報が、転じて家族団らんの機会を提供しているという、結果としてはいいことなんだろうが、皮肉な結末。しかし考えてみれば意外と深い所につながっていきそうにも思える現象だった。
津波警報は出されたものの大きな被害につながることはなく、地震から約6時間後には警報は解除。そして人々は家族団らんの時を楽しむ。悪いことじゃない。でも無批判にいいことだということも到底できっこないと思う。
【事実7】牡鹿半島の浜でも右往左往
あの日からだいぶ経ってから聞いた話。石巻市の牡鹿半島は、津波の最大高さや地震による地盤沈下の最大値が頻繁に測定される場所。典型的なリアス式海岸で、半島は南側も北側も深く切れ込んだ海岸線が連なる。そして半島の集落をつなぐ道はアップダウンを繰り返し、浜辺では海面とほぼ同じ高さまで下り、集落と集落の境界付近では車のエンジンが息を切らすほどの急登となる。
そんな牡鹿半島の集落であの日、11月22日はどんな状況だったのか。
「石巻から娘さんが迎えにきて、町まで連れて行ったってこともあったんですよ。信じられないことですが」
牡鹿半島の集落で支援活動をしている知人は教えてくれた。「仮設住宅でも自主再建した家でも、ここでは家は高い場所にあるから安全なんです。でも、ここから石巻まで行くとなると、途中で津波のリスクがある場所をどれだけ通っていかなければならないことか」
「ここにいるのが一番安全なんです。それなのに、津波警報が出された後、半島を縦断する道を石巻方面に向かう車、半島の先端方面に向かう車、どちらも普段以上の通行量でした」
津波で家財を流され、家族を失った経験を持つ人たちでも混乱してしまう。右往左往してしまう。
教訓を持っているはずの人たちの惑い。あの長い揺れを感じた時、おそらく被災地の人たちは5年9カ月前の記憶が呼び覚まされてしまったのかもしれない。
【事実8】避難すらしなかった人たち
宮城県では津波警報に引き上げられた。しかし、宮城県気仙沼市と接している岩手県陸前高田市に出されていた津波に関する情報は注意報のままだった。それでも陸前高田市では、長く揺れた地震と津波注意報の発令で、避難を行った人も少なくなかったらしい。
しかし、地元の人たちと世間話がてら尋ねてみると、新聞紙上の公式見解とは違った本音がにじみ出す。「避難? しなかったよ。だって大した揺れじゃなかったもの」「形だけは避難してみたけど、だいたい私んち高台だから避難する必要はないのよね」といった言葉も少なくなかった。
「大きな地震、あるいは揺れが長く続く地震=津波に警戒」ということは、身にしみてどころか骨までしみてよく分かっている。しかし反面、5年9カ月前の地震によって奪われた生活の基盤を取り戻すためには、「ちょっとくらい揺れたからって、仕事を放り出すわけにはいかないでしょ」という事情もある。
そんな話を聞いて、多賀城の高台のコンビニで、防災無線の声と住宅建築工事の音が、同じ空気を揺さぶっていたのを思い出した。
避難は命がけ。生活もまた命がけ。お遊びで避難するなんてバカなことはできぬ。といって、どれだけの津波が来るのかも分からない。
聞いた話とその実感。逃げた人、逃げなかった人それぞれの考え。どちらも分かる。分かるけれども、最終的にはてんでんこ。
【事実9】呼び覚まされた記憶
私は東北で東日本大震災を経験してはいない。遠くは慣れた場所で揺れを経験し、テレビの映像などでその被害を目の当たりにしただけだ。それでも、津波に対する感覚が少し変わった。
あの長い揺れが引き起こす恐怖。あの日、長く揺れる地震は、たとえ揺れが小さくても大きな津波を引き起こすことがあるという教えを座に思い出させた。とっさに車に向かって走り、とにかく逃げようと行動したのは、これまで体感したことのないほど長い揺れの不気味さが、知識として知っている大震災の悲惨に結びついたからだと思う。
しかし、振り返って思わずにはいられない。あの揺れを感じた時、東日本大震災で修羅場としか言いようのない世界を目の当たりにし、経験した人たちは、どんなイメージを想起したのだろうか。
敢えて言う。結果としてはたかが1.2メートルばかりの津波。それでもわたしは心底から恐怖し、命からがらの避難行動をとった。生き延びようと真剣に思った。あの日を境に、それ以前とそれ以後とで考え方まで変わったほど。
2011年のあの日を経験し、それからの日々を生きている人たちにとって、地震や津波に対するおそれがどれほど大きなものであるのか。私たちはその思いを共感することができるのだろうか。
生まれて初めて津波警報に身の危険を感じたことで、3月11日のことを経験した人たちの心の奥にある深い淵を、ほんのわずかだけだが覗き込むことができたかもしれない。知り得たとしてもそれは千万分の一くらいなものなのかもしれないが。
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