南三陸町、志津川の町を車で走ると、別の世界に来たような気持ちになる。夜中に走っていると、まるで海の上を走っているかのような錯覚に囚われてしまう。それくらい、町のかさ上げは高い。かつて町があった場所には、まるで中央アメリカのピラミッドを思わせるような高い盛土の山が聳え、その上に国道の迂回路が築かれる。南三陸の町を車で走るたびに、新たな世界が造られていることを否応なしに思い知らされる。
そんな世界の中、いわば旧世界ともいえるようなこの場所に、この建造物、正確にいうなら建造物の残骸は今も立っている。
かさ上げや造成、道路の新設などさまざまな工事が推し進められている南三陸町には、今では車をちょっと駐めるような路肩も空き地もほとんどない。
2016年、防災庁舎周辺の光景
新たな町づくりが進む南三陸町にあって、防災対策庁舎が震災の悲惨を外部からの人々に伝える語り部のような存在だ。被災地と呼ばれる場所へ引き寄せられるようにしてやってくる多くの人々にとって、この場所に立つということは何か特別な意味を持っているのかもしれない。その意味がなんなのか知りたくて、私もこの場所を何度も繰り返し訪ねてきた。しかし、かさ上げ工事が本格化する中、今では防災庁舎に近づくことすら困難な状況になっている。上の写真は庁舎の西側、自動車修理工場かガソリンスタンドがあったらしい場所から遠望したもの。建物の高さをしのぐ土の山が庁舎に迫っているのが分かるだろうか。
元々は庁舎よりも海側を走っていた国道45号線が、庁舎の西を迂回するようになってから、何千台、何万台もの自動車が庁舎のすぐ近くを走り抜けていくようになった。歩道とてありやなしやの状態だから、徒歩で庁舎に近づくことはけっこう危険だ。
防災庁舎の北側の幼稚園がある高台からの景色は痛ましい。前後左右に積み上げられていくかさ上げの土の山が、防災庁舎を囲んでいるのがよく分かる。
庁舎の北に流れる川の近くから見るとこんな感じだ。工事現場のバリケード、土の山、そしてBRTのバス。それらが日常の風景になってすでにずいぶんな時間が流れた。
2016年、防災庁舎への道
2015年末、そして2016年始現在、防災庁舎のすぐ近くに入るには、南側に大きく迂回する必要がある。この道は元々の国道45号線。東浜街道と呼ばれ、古くから三陸沿岸部の大動脈だった道だ。しかし今では、一軒だけ残された高野会館の他はかさ上げの土の山。道路も前方数百メートルのところで土の山によって遮られている。
南三陸町防災対策庁舎への入口(2016年始現在)
防災庁舎への道は、高野会館の向かい側を左に曲がる。オクトパス君が描かれた工事看板には「防災庁舎はこちらから」などと書かれてはいないが、工事現場の砂利道を少し走ると、下の写真の看板が連なるように掲示されている。
「防災庁舎・一般車両・直進」
この案内看板がなければ、おそらく3人に2人は途中でUターンするだろう。それくらい道はデコボコで、両側にはかさ上げの山の斜面が迫り、どこか明るい場所につながる道路とは思えない。まるでアリゾナかテキサスかといった風情すら感じられるほどだ。
そんな赤茶けた小山の向こうに、防災対策庁舎が見えてくる。この場所でたくさんの命が失われたことを考えれば不謹慎かもしれないが、防災庁舎の赤い鉄骨が見えた時、やっと辿りつけたという安堵感のようなものすら感じた。
防災庁舎は今もこの地に立っている。庁舎のまわりにはバリケードが新設され、かつては入口前にあった祭壇も少し離れた場所に移された。それでも今も全国から、防災庁舎には多くの人達が集まってくる。
庁舎のまわりはフェンスで囲われてしまったが、かつての敷地境界に沿って、建物の南側も見ることができる。
震災直後建物に絡みついていた漁網や家財道具などはなくなった。しかし猛烈な津波の痕跡は、今も庁舎の骨組みに痛々しく刻まれている。
震災遺構を巡る撤去か保存かという議論。それぞれの意見の背景には、たくさんの人たちの悲しみや辛さ、あるいは覚悟が反映されている。
あの日、この鉄階段を駆け上がった人たちがどうなったのか。私たちはこの階段をどんな気持ちで眺めればいいのか。
2016年、防災庁舎を海側から遠望する
高野会館の前に残る旧国道45号線。北に向かってまっすぐ走れば道はすぐに行き止まりになる。しかしそこから右に曲がるようにして、港方面への砂利道が続いている。その途中、人間の手になる高い山と山の間に防災庁舎がひっそりと立っていた。
20メートルはありそうなかさ上げされた小山を登って行くと、そこに町を見渡す展望台が築かれていた。橋の新築や道路整備、新しいまちづくりを展望するために造られた場所らしいのだが、高台に立つと自然と目が探そうとする。
防災庁舎はかさ上げの土の山の間にあって、まるで孤立するように立っている。
宮城県が管理を担当して、震災メモリアル公園の一部として保存される方針が固められたという。悲惨な記憶を残すことは、大切な人を震災で失った人たちにとって苦しみでしかないかもしれない。それでも防災庁舎は人々に語りかける力を持っている。
ここに立っているというだけで、南三陸町の防災庁舎の意味がある。
この場所で起きたこと、この町で起きたことを、できればずっと語り続けてほしい。防災庁舎を目の当たりにした人は間違いなく、未来に向けて防災を考える人になる。辛く悲しい場所ではあるけれど、日本中、世界中の人たちが命の意味を学ぶ場所として残してほしい。ご遺族や被災された町の方々に、頭を深く下げてお願いしたいと思う。
(2015年の年末から2016年1月にかけて撮影、話を伺って作成しました)
最終更新:
iRyota25
記事の冒頭で「インカのピラミッド」と書いていた件で、インカ文明にはピラミッドはないのではとのご指摘をいただきました。段差がつけられた盛土の山を見て連想したのは、テオティワカンの太陽のピラミッドのような中米のピラミッドでした。ご指摘いただいたsKenjiさん、ありがとうございました。