北上川中流の町・花巻に生まれた宮沢賢治。盛岡中学に通っていた頃、修学旅行の旅先で初めて海を見たのだそうです。江戸時代から主要な水上交通路だった東北の大河・北上川を汽船で下って石巻へ向かう旅。
後年、その時の感慨を記した詩の詩碑が石巻に建てられています。
公園の桜の木(?)が写り込んでしまって、よく読めませんね。詩碑に記されているのはこんな詩です。
われらひとしく丘にたち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる鹽の水
海とはおのもさとれども
傳へてききしそのものと
あまりにたがふここちして
ただうつつなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒の
うろこの國の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき
「われらひとしく丘に立ち」詩碑 | 石巻市・日和山
「われらひとしく丘にたち」という書き出しには、いかにも修学旅行で初めて海を目にする中学生たちの高揚感があふれていますが、続く言葉が発する光は、ただ海を賛美するようなものではありません。
「青黒く」「ぶち打てる」「あやしきもの」、東に果ての見えない広がり…。
海なんだということは頭で理解はしているのだが、それまで伝え聞いてきた海のイメージとはほど遠く、まるで鱗の国かと思われるように光の波が寄せ来るのを、ただ見つめているばかりだった。
「われらひとしく丘にたち」と、わくわくして海に対面した中学生たちが、実際に海を目の当たりにした後には。なかば呆然として立ち尽くしているような姿が目に浮かび上がります。
岩手県の内陸部に育った賢治たちにとって、伝え聞いた話から想像する海は、風に木々が揺れる山の光のようなものだったのかもしれません。
海だべがど おら おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
高原(初版本)/『春と修羅 〔第一集〕より
むかし岩手の山に登った時、眼下に広がる高原の笹原が、まるで海のように見えて、ああこれが「海だべがど」と賢治が描いた光景なのかもしれないと感慨深く思ったことがありました。
しかし、遮るものもなく広がる太平洋はあまりにも大きく、言葉を失うのみならず、底知れぬ不気味さのようなものをも溢れさせている。賢治たちはそう感じ取っていたのかもしれません。
およそ100年前、盛岡中学の生徒たちが海を眺めたのは、石巻の日和山だったと伝えられています。賢治の詩碑も日和山頂上近くの公園に建てられています。
賢治たちが初めて海を目にしたおよそ100年の後、津波から逃れて日和山の急坂を駆け上がった多くの人たちが、わだつみのうろこの國から溢れ出たものが町を呑み込んでいくのを見つめていたのだと考えると、この場所にこの詩が刻まれたことの意味を思わずにはいられません。(この詩碑が建てられたのは1988年のことだそうです)
あまり目立たない詩碑ですが、石巻に行ったら探してみてください。この詩を読んでから見晴らす太平洋の光景は、少し違ったものに見えるかもしれません。
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