その船を最初に見た時の衝撃を忘れない。気仙沼の港沿いから鹿折駅方面へのカーブを左に曲がってほどなく、その船が見えてきた。津波被害を受けた建物の片づけが進み、残されたコンクリートの基礎くらいしか町の痕跡が分からない荒涼とした風景。コスモスと、あとはたぶん塩害に強いのだろう、名前も知らない真っ赤な雑草ばかりが揺れる広い広い空の下に、船はその巨体を曝していた。
震災の直後から炊き出し支援やニーズの聞き取りの目的で被災地を走り回っていた友人たちから、その船の写真は何度も見せてもらったことがあった。テレビや雑誌でも繰り返し取り上げられた。震災から1年半が過ぎた後、はじめて気仙沼に入ることになった時には、「その船をこの目で見たい」という熱望のような気持ちがあった。その時の自分は完全に観光感覚。被災地ミーハーだった。
被災地ミーハーを圧倒する巨大な船体
ミーハー感覚だった自分なら、平坦になってしまった町の向うにその船が見えたその場所でクルマを降りて、写真の一枚でも撮っていたってよさそうなものなのだが、アルバムにはそんな写真は残っていなかった。クルマを停めて撮影していたのは、津波被害を受けた町の姿。基礎だけが残された住宅跡の様子ばかり。
船が目に入ったのに直視できず一旦右折して、鹿折の町の方に迂回していたのだった。陸上に漁船が乗り上げている光景はほかの場所でも目にしてきた。強烈な違和感というか、どうして海の物がここにあるのかという疑問を、見るたびに突き付けられたものだった。しかし、その船はあまりにも巨大すぎて、違和感も尋常なものではなかった。あまりにも圧倒的だった。
何かに観念するような気持ちで、かつて駅前通りだった道にクルマを停めて船の近くまで寄ってみた。見上げるような場所まで近づいて、改めてその大きさに驚かされる。
第十八共徳丸、330トン。船の大きさをトン数で表示しても分かりにくい。ちなみに最近では「艦隊これくしょん」の影響でか軍艦のスペックを目にする機会もあるが、ゲームに登場する艦でもとくに小さい駆逐艦でも排水量は1300トン以上ある。それに比べれば何分の一の大きさなのだが(実際には商船と軍艦とではトンの基準が違うので、単純な割り算よりもさらに小さい)、この巨体は見上げるばかりだ。
側に立つ人たちの背丈と比べても、いかに大きいかがよくわかる。
船尾はコンクリートを切り裂いている。
船体の下には押しつぶされた自動車が数台残されたままだ。
船体には何カ所か、火災で焼け焦げた跡が生々しく残っていた。
触れるくらいの場所をしばらく歩いた後、どういうわけか写真を撮るのが苦しいような気持ちになった。花でも交えた構図にしたいと思って、こんな写真ばかり撮っていた。
地元の人たちの船を見る目
「津波に乗って町なかに入ってきたのはあの1隻だけじゃなかったんだ。うちの近くだけでも津波の後に6隻残っていたくらい。鹿折全体だともっとたくさんの船が流れ込んできたんだ。津波ってざーっと一様に流れ込んでくるのではなくて、まるでうず潮のようにうねりながら押し寄せてきて、流れ込んできた後も渦を描いて複雑に流れるものなんだ。そのうねりに乗って船が輪を描くように町の中を流されていく。流されながらそこにある建物にぶつかって、どんどん町を破壊していくんだ。その様子を高台からずっと見ていた。見ているしかなかったんだ」
鹿折の町でいち早く理容店を再開した方からそんな話を聞いた。ちょうど「震災遺構」として船を保存するかどうするかという議論が起こっていた頃だった。
「住民の感覚からすると、残すなんて考えられないね」と彼は言った。船には舳にもたくさんの傷がついている。その1つひとつが何かの建物にぶつかって、人が暮らしていた家や工場などを破壊していった跡なのかもしれない。船の下敷きになっているのは、外から見えるクルマだけではないだろう。もしかしたら、行方不明者が下敷きになっているかもしれない。そんなことを話していたら、船の見え方が変わった。
その船のまわりにはたくさんの人が訪ねてくる。船を見てため息をつく人、放送局のステッカーが貼られたビデオカメラを回すテレビ局のクルー、たまに「Vサイン」をして笑顔で記念撮影をしていく人もいる。
「ひまわり咲きます」の立て看板を目にした時には感じられなかった地元の人の気持ちが、少しわかってきた気がした。花を植えずにいられない気持ち。せっかく花を植えた場所にずかずか入ってほしくない気持ち。
ひまわりが咲く場所
まだ船があった頃、夏には船のまわりでたくさんのひまわりが咲いた。
保存か解体か、地元住民と行政の意見が分かれる中、船は陸上で3回目の夏を迎えていた。感覚として、外の人からは保存を求める声が大きかったように思う。でも、地元の人たちの解体撤去を求める気持ちは変わっていなかった。
ひまわりが咲く中に残された巨大な漁船という絵柄は、どこかこの世の物とも思えない不思議な雰囲気をかもしていた。しかし、その絵は、人々の暮らしが確かにあったその場所を、船が蹂躙していったことを証明しているようにも見える。
3年目になっても、船を見るためにやってくる人たちはたくさんいた。新聞やテレビのクルーらしき人が相変わらず少なくないことも、笑顔で記念撮影していく人がいることも変わらなかった。船の斜め前のコンビニの駐車場はいつも賑わっていた。
船が解体・撤去されて
2013年の12月、解体・撤去が完了し、工事中に周囲を覆っていたフェンスもなくなった。うっすらと雪が積もった場所には、かつて船があった痕跡は見当たらなかった。
解体された船の下からは、新たな犠牲者が発見されることはなかったという。船がなくなって、この辺りの光景は一変した。コンビニは閑散としていた。
撤去から1カ月もしないうちに、ちょうど船があった真上に早くも土木工事の丁張(工事場所の座標を示す杭)が設置されていた。道になるのか広場になるのか、その時にはわからなかった。船がなくなった後の光景の変化にも驚かされたが、約1年後に再訪してさらに驚いた。元々道路だった場所はかさ上げ工事が進められていて、道は船があった場所に付け替えられていた。コンビニは仮設商店街とともに、少し離れた場所に移設されていて、もはやそこに船があったことすら分からなくなっていた。
伝えていく責任
船が撤去されたことで、かさ上げ工事など町の復旧に向けての動きは間違いなく加速している。住宅の再建までにはまだ少し時間が掛かるかもしれないが、町は変貌し始めている。
そのことを歓迎する気持ちがある一方で、船が持っていた圧倒的な「負の存在感」が永久に失われてしまうのではないかという気がしてならない。夜だったせいもあるだろうが、船があった場所に付けられた新しい道を走っていて、その場所がどこだったのかほとんど分からなかった。
まだ船があった頃に撮った写真にたまたま写っていた子供の姿を思い出す。
黙祷している大人たちに連れられてやってきた少年が、ひとりは「ふーん」とでも言ってそうな後姿で船を見上げている。もう1枚に写った少年は、帰ろうとする家族に「もうちょっと待って」と言っているようにも見える。
この少年たちは、船のことを忘れることはないと思う。どうしてこんな場所に船があるのか、船がここに流れ着くまでの間に町でどんなことが起きたのか、この時には理解できなくても、必ずいつか思い出す。そういえば小さい頃あそこで見た船はなんだんだろうと。そう思った瞬間から、彼らは震災の記憶を受け継いでいく人になる。
しかし、そのことを物語っていた物体がなくなったいま、あの船が有していた圧倒的な巨体で語りかける力(見た瞬間に考えずにはいられなくさせる強い力)、負の遺産としての力に代わって、震災の記憶を伝えていくことは気仙沼・鹿折の地元の方々ばかりでなく、少しでもあの船に関わった私たちの責務だと思う。
記憶は風化する。風化するのを止めることはおそらく誰にもできないだろう。だったら風化する以上に伝えていけばいい。つねに新しく、付け加えていく覚悟で。
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