[プロローグ]住民の約5分の1にあたる97人もの犠牲者が出たという石巻市渡波(わたのは)地区。
かつては民家や水産加工場が軒を連ねていた場所は、いまでは一面の更地。ぽつりぽつりと残っているのは「全撤去」とか暗号のような数字(たぶん解体の手順や、境界線を保護するための記号だろう)がペイントされた建物ばかり。
そんな渡波の海辺沿いの道を歩いていたら「営業中」との看板が立っていた。
真新しい看板に記された文字は「カフェ ら・めーる」。
ほとんど建物がなくなった渡波の町を見渡すと、たしかに一軒、まるで新築のようなお洒落な住宅が建っていて、ウッドデッキの先にはさらに大きな看板が立てられていた。
正直いってびっくりした。海からの距離は150mか200mくらいしかない。まわりは津波でやられた後の廃墟。さらに、営業中のお店の横には、被害を受けたままの状態で解体を待っているアパートのような建物まであるのだ。
海に向かって開かれた明るい店内
とても明るい佐野明男さんと良子さんご夫妻
復興に向けて活動する
地域の裁縫グループの集合場所である
絵手紙教室も開催されている「ら・めーる」はフランス語で「海」の意味なんです。お店のマスター・佐野明男さんがお冷をもって来なが教えてくれた。新築して3カ月か4ヶ月目に大震災でやられちゃって。元々はお店じゃなくて住居だったんです。片付けはボランティアの人たちが手伝ってくれて、最後の仕上げは大工さん――。
そんな感じで、話がぽんぽん飛び出してくる。
ご近所の人に乗せられちゃってね、津波で家がなくなって、仮設やみなし仮設の暮らしでは、友達を呼んでちょっとお茶しようという場所がない。佐野さん、喫茶店でもやったらどう? ってね。
奥さんの良子さんも奥からやってきて、お二人で掛け合いながら話しをどんどん進めてくれる。
たしかにこの辺じゃ、道を歩いている人にでも「お茶して行かない?」なんて声をかけるような文化があったから。狭い仮設住宅に閉じこもりになっていると気が滅入っちゃうでしょ。
津波でやられた住宅を修理して、ふつうに住むのでもよかったんだけど、どうせならみんなが喜んでくれることをした方がいいじゃない。夫も私もリタイアして、神奈川から私の地元のこちらに戻って来たところだったの。そんな矢先の今度の震災だったのね。この先の人生、楽しく過ごせた方がいいと思って、自宅をカフェにしちゃいました。
石巻にはボランティアの人たちもたくさん来てくれているけど、ボランティアさんの住環境も大変なんだよね。狭いし相部屋だったりもするから、のんびりできる場所がない。こないだもボランティア人がきて「ゆっくりして行ってもいいですか?」って言うから、パリのカフェだとコーヒー1杯で4時間とか5時間とか平気で過ごす文化がある。うちもカフェなんだから、遠慮なくゆっくりしていって下さいって話したんです。
彼女たち、本当に4時間くらい長居してくれたけどね。
地元って言っても私の場合は40年目の浦島さんだから(故郷に帰るのが40年ぶりということですね)、おもしろいのよ。「むかし一緒に遊んだっちゃ」という人が来てくれたり、お店に来た人がじーっと私の顔を見つめて「良子ちゃんだったよね」なんてことがあったり。ここでお店を出して良かったと思うわ。今度同窓会でもやりましょう、なんて盛り上がれるんだから。
そういうのがうれしいんだ。仮設暮らしの地元の人が集まってだべる場所になったり、ボランティアさんがのんびりして行ったり。
そうそう、こないだは店の前でコンサートもやったんですよ。家の修理をお願いした建設会社の社長さんが、トラックの荷台のステージで大熱唱したりして。そういう面白いことをやっていきたいね。新しいこと。これまでの石巻ではなかったようなことをね。
※ちなみに、対岸にあるサン・ファン館で音楽イベントなどが行われると、津波で建物がほとんどなくなったせいか町中まで音が聞こえることがあるらしい。ら・メールでコンサートを行った時には、「いつもと聞こえてくる方角が違うと思ってきてみた」というお客さんもいたそうです。
カフェ ら・めーる ◆ 石巻市松原町2-19 ◆ TEL:0225-98-7345 ◆ OPEN 11:00~17:00 ◆ 定休日:日・月曜日
次のページでは佐野さんご夫妻の震災時のご経験を伺います
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
震災時には離れ離れになったお二人
元々の玄関だった場所を入ると、玄関ホールの2階に「津波到達点」が
記されていた。新築して3カ月か4カ月目の出来事だ
国道側からは大きな被害に見えなかったが、
海の方にまわってみると、壁はぶち抜かれ、自動車などが突っ込み・・・。自宅の被害も
甚大だった。「ここは和室だった場所なんで、この窓には
障子の敷居が残っているんだ」と、ご主人が説明してくれた
ああこれが津波か・・・
震災の当日、マスターと奥さん、そして奥さんのお母さんの3人はそれぞれ別々の場所にいた。
マスターは仙台のクリニックに。奥さんは石巻で水墨画のレッスン。お母さんは自宅にいた。
激しい揺れがおさまった後、奥さんはお母さんのことが心配で、自宅に向かってクルマを走らせた。「ここには津波は来ない」とお母さんは常々話していたからだ。来るか来ないかわからないけど、とにかく家に戻らなければ。
国道398号を東へ向かう。津波で数日の間不通になった内海橋も、津波の到来前だから当然通ることができた。もうすぐ家に到着という頃、海岸線の松林の上に「水っけ」のようなものが見えた。
「水煙とかじゃないのか」とマスター。
違うの、水煙とかじゃなくて、なんだろう水の気配のようなものがすーっと見えて、とっさに左折して海から逃げる方向に走ったのよ。
逃げるっていってもこの辺はちょっと走ったくらいじゃ畑とかばかりで高い場所がないの。後ろを見ると水が追いかけてくる。大きな波のようなのではなかったけど、後ろから水がどんどん近付いてくるの。
そのとき思ったこと? そうね、「あぁ、これが津波か」って感じだったわね。
奥さんはとにかく逃げに逃げ続けてなんとか難を逃れた。
自宅にいたお母さんは、地震の後、やはり「ここは大丈夫だから」と家に残る気でいたらしい。それでもご近所の方から「今度ばかりは逃げた方がいい」と急きたてられて腰を上げたのだとか。平地が広がる渡波のこと、逃げるにしてもどこに逃げたらいいのか――。
「古老の言い伝えとして、津波の時は大宮の神社に逃げろって話があったんだね。そこに逃げたからなんとか助かったんだ」
地震発生から3日目の再会
そう教えてくれたマスターの震災直後の行動は?
揺れがひどかったからね、すぐにでも帰ろうと歩き出しましたよ。
ちょっと待って下さいよ。仙台から石巻まで約60km。その距離を歩いたんですか?
足には自信があるんです。マラソン大会で優勝したりもしていたしね。60kmなら「まあ楽に歩いて帰れるな」って感じでしたね。歩き始めたのは震災直後の3時ごろ。あの日は4時半くらいに暗くなり始めたかな。
まだ塩釜に入るずっと手前のところで、やっぱり東に向かって歩いている人たちが高速道路に土手を伝わって登っていました。たぶん一般道は通行するなってことだったんだろうね。
たしかに多賀城あたりは水没していたようですからね。でも、三陸道は北の方に大きく迂回しているじゃないですか。遠回りとか思わなかったんですか?
その時はね。ただ一般道を歩いていたら、帰れなかっただろうね。その日は暗くなった後も高速の上を歩いて、松島の知人のところに寄せてもらいました。翌日、途中まで車で送ってもらったんですが、やはり途中から水に浸かっていて。今度は鉄道沿いに歩きましたよ。小野のあたりかな、鉄道も水没してその先通れないからまた高速に戻ってね。その日は石巻の西側にある河南インターまで歩きました。
石巻市まで入ったんだから、あと少しじゃないですか。でも石巻の中心部は水没していて、自衛隊の人がボートで町中から人々を救出していた。
オレは東に行きたいから、戻りのボートに乗せてくれと頼んですよ。そしたら「みんな水没した町から避難してきているのに、逆に行くなんて何を言っているんだ」って断られてね。その夜は近くのショッピングセンターで一泊。水没した町を北に迂回して、石巻線のトンネルを通ってやっと戻って来たのは3日目。家族とは渡波小学校で再会できました。
それから数日、渡波小学校の体育館で過ごしました。シートを敷いた上に座って、寒いからみんなで背中を寄せ合って。食べ物もない。暖をとる手段もない。上空をヘリコプターは飛び回るけど、降りられる場所がないからどっかに行っちゃう。ようやく自衛隊が入って来たのは、空でも陸でもなくて海からだったって聞いています。
避難所にいた時には地震からずいぶん時間がたった後でもブルーシートに包まれて出ていかれる人がたくさんいましたよ。震災関連死っていうんですね。私たちは3月25日に埼玉に避難して、その後横須賀に移ったんですが、厳しい状況は長く続いたようですよ。
※奥さんのお母さんが避難されたのは、伊去波夜和氣命神社 (いこはやわけのみことじんじゃ)。
石巻市渡波地区の大宮町にある神社で、通称「明神社」と呼ばれ、漁業や海上の安全、製塩の神様として信仰を集めているそうです。
カフェ ら・めーる ◆ 石巻市松原町2-19 ◆ TEL:0225-98-7345 ◆ OPEN 11:00~17:00 ◆ 定休日:日・月曜日
次のページでは「ここから離れようと考えたことは?」とあえて尋ねます
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
ここから離れようって考えたこと? 全然ないね。
マスターの佐野さんは断言します。奥さんも続けて、
たしかに周りの家がなくなって、海がこんなに近かったんだってことは思ったけど、ここから離れようとは思わなかったわね。だって、小さい頃は堤防なんかまるっきりなくて、家からそのまま走って海に行けたのよ。
石巻は海といっしょに発展してきた町なんだから、いまさら海を離れるなんてできないんじゃないかな。海水浴でたくさんの人が集まっていたくらいきれいな海がここにはある。そして美味しい魚がある。それが当り前でみんな暮らしてきたんだから。
移住してきたマスターもまったくの同意見らしい。
津波で大変な目に遭ったけど、でもこれまで人間はこの土地でずっと昔から生活してきたんです。地震が来たら逃げるが勝ち。危ない時には避難する。うまく逃げのびて、そして落ち着いたらまた戻ってくる。その繰り返しで人々はこの土地で生きてきたんじゃないかな。
まだ戻ってきている人は多くないけど、これからだんだん人は増えてくるだろう。その時に、やっぱり座り込んでだべる場所があるといい。ここはそのための場所なんです。
被災地の多くの場所で高台移転の話を聞く。もう海を見たくないという人も少なくないという。海辺に生活の場を再建するなんてもってのほか、という意見もある。それでも佐野さんご夫婦の話を聞いていると、佐野さんたちのような生き方も「あり」だと思う。それくらいお二人は明るくて、パワフルで、前向きだった。
◆
お話の途中で、「目標はあと5年、よね」と奥さんがマスターに語りかけた。悠々自適を求めて移り住んだ(奥さんにとっては戻ってきた)場所。あと何年くらいここでカフェを続けるかという話だ。
思わず「5年ですか!」と声が出てしまった。被災地の復旧は5年を目標になんて言われているが、誰もそんな話を信じてはいない。まあ10年はかかるだろうとか、15年か20年か、さらにもっとかかるかという声もある。「もっとがんばって下さいよ」と言うと、
「この人次第ね」と奥さんは目配せした。
マスターは苦笑のような微笑のような、ちょっと複雑な表情でやさしく目を輝かせた。
きっと大丈夫。仙台からの60kmを徒歩で帰ってきたくらいのマスターのことだ。復活に向けて活動する人たちのいこいの場として、カフェ ら・めーるは渡波の海のそばに生き続けることだろう。
本文の締めくくりに、カフェ ら・めーるに飾られていた三好達治の詩をご紹介。タイトルは『郷愁』。(左右2枚を続けてひとつの詩です)
カフェ ら・めーる ◆ 石巻市松原町2-19 ◆ TEL:0225-98-7345 ◆ OPEN 11:00~17:00 ◆ 定休日:日・月曜日
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
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