事の発端は”早慶戦”
気候も暖かくなり、段々と夏が近づいてくるのを感じる。6月には沖縄から全国高校野球選手権大会予選が始まり、8月にはまた「夏の甲子園」が我々を楽しませてくれるだろう。さて、その「夏の甲子園」であるが、朝日新聞社が主催し、開催回数は実に90回以上。圧倒的な存在感を誇る国民的行事と成り得た。だが、その朝日新聞が、かつて大々的な野球批判のキャンペーンを行ったのはご存じだろうか。 事の発端は早慶戦を中心とした、明治時代の野球の大ブームである。明治39年、常に僅差の接戦を繰り広げていた早稲田と慶応。新聞は各紙ともこの対戦に注目し、併せて世間の注目度は日に日に増していた。特に、直近の試合にて早稲田、慶応ともに当時最強を誇った第一高等学校(現・東大教養学部等)に勝利したことから、世論も早慶戦を日本一決定戦と位置付けるようになった。両校の応援も過熱した。さながら、今でいうところの、フーリガンとも呼べる激しさだったという。
しかし、その激しさが物議を醸しだすことになる。両校へは脅迫状が届き、審判を務めた学習院には脅迫電話がかかる。第1戦に勝利した慶応の学生らは、大隈重信邸・早稲田正門で万歳三唱をするなど挑発行為を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福沢諭吉邸・慶応正門にて大勢で万歳三唱。過熱した応援合戦はモラルの範疇を超え、ついに第3戦(決勝戦)は行われることがなかった。このことから両校の関係は悪化。絶縁状態となってしまい、のちに早稲田、慶応、明治、法政、立教の5大学でリーグ戦が発足したが、早慶戦のみ行われないという不自然な状況が大正14年まで続いた。
(明治39年に熱戦が繰り広げられた早大戸塚球場跡地。 今は早稲田大学図書館として静かにその役目を果たす。)
野球批判キャンペーンと新渡戸稲造
この行き過ぎた応援加熱現象は、早慶戦以外でも見られるようになった。更には、野球を続けるために留年を繰り返した学生もいたという。新聞各紙での扱われ方も尋常ではなくなり、ブームと同時に批判の対象ともなった。そこで、その批判を各著名人に委ね、大々的な野球批判キャンペーンを行ったのが、当時唯一の全国紙であった東京朝日新聞だった。明治44年のことである。
(新渡戸稲造。現代においては「旧5000円札の人」として有名?)
中でも、ヒステリックなまでに野球嫌いを示し、正論から暴論、根も葉もない俗説まで述べていたのが当時第一高等学校・校長の新渡戸稲造である。以下にコメントを抜粋する。
・ 野球は賤技なり剛勇の気無し・ 日本選手は運動の作法に暗し
・ 本場の米国すでに弊害を嘆ず ・ 父兄の野球を厭(いと)える実例
「野球といふ遊戯は悪くいえば対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁(ベース)を盗もうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが英人やドイツ人には決して出来ない。」
「学生は野球に夢中になって勉強しなくなる。また肺を悪くするなど健康上もよくない。野球は害毒がありこそすれ、いいことはひとつもない。」
まさに言いたい放題である。学者でありながら、根拠のない暴論や偏見が随所にうかがえることから、よほどの野球嫌いであったのだろう。 また、金子魁一東大医科整形医局長は「・・・連日の疲労は堆積し、一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理である・・・」
と述べている。勝利のプレッシャーが脳に悪影響を及ぼすと、今ではにわかに信じがたい説を唱えた。 その他、脅迫電話を受けた学習院の乃木希典学習院長、川田府立第一中学校長らが、批判記事の執筆に携わっている。
「夏の甲子園」主催へ
さて、当時日本を代表した著名人が名を連ねた大キャンペーンであったが、そのキャンペーンが振るわなかったことは容易に推測できるだろう。それは今日、野球が国民的スポーツとなっていることからも明らかだ。 当時の時代背景として、明治44年は大阪毎日新聞社が東京進出し、東京拠点の強化を図ったことに対する、東京朝日新聞社側の牽制という見方がある。当時唯一の全国紙であった朝日新聞がその存在感を示すために、人気爆発中の野球をやり玉に挙げたと推測されている。しかし、他紙や各方面からからの強烈なバッシングを受け、論調は衰退していったのだ。
のちに、朝日新聞は「夏の甲子園」の前身となる「全国中等学校優勝野球大会」を主催することになる。わずか数年前に大々的に野球批判を行った朝日新聞は、そのかつての行いと矛盾しないようにしなくてはならない。そこで、かつて盛況のあまりモラルが問われた野球を、規律正しい方向へ導くべく、大会趣旨を整えたのだ。日本学生野球憲章には、その思いが込められている。① 学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。
(日本学生野球憲章 第1章 総則 第2条(学生野球の基本原理)より引用)
(第1回大会・村山龍平・朝日新聞社社長による始球式。当時は甲子園球場はなく、豊中球場で行われた。)
健全で模範的なスポーツの代名詞となっている高校野球だが、その背景には朝日新聞社による「野球害毒論」が少なからず関連しているのだ。
◇参考ページ◇
(Number Web 2011年07月16日付) 『熱血児押川春浪 野球害毒論と新渡戸稲造』(横田順彌 1991年12月)
『日本学生野球憲章』 (公益財団法人 日本高等学校野球連盟)
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