田老町の「津波防災都市宣言」は明日を生きつづける

iRyota25

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2005年に合併して宮古市になるまで田老町の役場だった現在の田老総合事務所には、田老が町だった頃から伝えられてきたものが大切に残されている。

上の看板は、田老町が町として「津波防災都市宣言」を行ったことを記念するものだ。

大きな被害を受けた昭和三陸津波から70年を記念して、2003年に防災都市を宣言した田老町が、宮古市になった後も津波防災としとして改めて宣言し続けてきたことを平成19年の日付が物語っている。しかし田老町は、東日本大震災でまたしても壊滅的な被害を受けてしまうことになった。

村が壊滅する経験が生んだ巨大防潮堤

津波研究者の山下文男さんによると、1896年の明治三陸地震の津波で当時の田老村は村の住宅のすべて、345戸が全滅。被害地人口2,248人の83.1%の人たちが命を失ったという。家屋全滅。村人の5人に4人以上が死亡。そんな状況、想像できるだろうか。

文字通り壊滅してしまった村では高台移転を進めるが、結果的に計画は頓挫。元の家屋敷があった海の近くに田老の町は再建されていく。そして明治の三陸津波からわずかに37年後、1933年3月3日に発生した昭和三陸地震の津波でも、田老村は甚大な被害を受けてしまう。559戸のうち500戸が流出・倒壊し、死者行方不明者は被害地人口2,773人の32%にのぼった(山下文男さんの研究による)。

万里の長城とも通称された田老の防潮堤が建設されることになったのは、津波の翌年の1934年のこと。難色を示す国や県との折衝、太平洋戦争による工事中断を経て1958年に完成した田老の防潮堤は、全長1,350m、海面から高さ10mの大規模なものになった(その後も追加工事が続けられ、「X型」で全長2,433mの二重の防潮堤が最終的に完工したのは1978年)。

防潮堤が幾たび乗り越えられたとしても

しかし、そんな田老の防潮堤でも東日本大震災では町を守ることができなかった。

写真は防潮堤の通路として頑丈に造られていた部分。手前と奥に続いていたはずの堤体部分は失われたまま。破壊がひどかった北側の海側堤防は、本体が完成した後に追加で造られた新しい堤防だったという。

第一期工事で造られた堤防の中心部にある通路。ご覧のとおり修繕で色がまだらになってはいるものの、この部分は堤防として今後も利用できると判断されたわけだ。

より新しい堤防が見る影もないほどに破壊され、古い堤防が生き残ったことに、土木工事の質の問題や、防災意識の変化を指摘する話を聞くこともあるが、そればかりではないような気がする。どんなに技術の粋を尽くして備えたとしても、自然の力は人間の造ったものなど歯牙にもかけないほど強大だという厳然たる事実がここにある。

科学技術を過小視するわけではない。しかし、震災から4年半以上が過ぎて、いまも目の前にある田老の防潮堤の現実を目にすると、津波からの避難は高台に逃げるよりほかないということを改めて思い知らされる。たぶんそれがリアリズムというものだ。

そんな実感をもった状態で田老総合事務所に行き「津波防災の町宣言」を読んでみた。

「津波防災の町宣言」

 田老町は、明治二十九年、昭和八年など幾多の大津波により壊滅的な被害を受け、多くの尊い生命と財産を失ってきました。しかし、ここに住む先人の不屈の精神と大きな郷土愛でこれを乗り越え、今日の礎となる奇跡に近い復興を成し遂げました。

 生まれ変わった田老は、昭和十九年、津波復興記念として村から町へと移行、現在まで津波避難訓練を続け、また、世界に類をみない津波防潮堤を築き、さらには最新の防災情報施設を整備するに至りました。

 私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます。

 御霊の鎮魂を祈り、災禍を繰り返さないと誓い、必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する勇気の発信地となるためにも、昭和三陸大津波から七十年の今日、ここに「津波防災の町」を宣言します。

平成十五年三月三日
田老町

「津波防災の町宣言」田老町 2003年3月3日

「万里の長城と呼ばれた立派な防潮堤が破壊されて、甚大な被害を繰り返すことになったその町は、かつて津波防災都市宣言をしていたんだって」と表面的に捉えると、どこかイソップの寓話を思わせる皮肉な教訓物語を思い浮かべてしまいそうだが、それは間違いだ。

「ここに住む先人の不屈の精神と大きな郷土愛でこれを乗り越え、今日の礎となる奇跡に近い復興を成し遂げました」

明治三陸地震での全戸壊滅、昭和三陸地震での559戸中500戸倒壊・流失という歴史を思えば、宣言にあるこの言葉の重みはずっしりと増す。

「近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」

東日本大震災以前から田老の人たちは過信を戒める言葉を宣言に刻んでいた。さらに、津波が必ず繰り返されることも。

この宣言に、皮肉ではなく、明日に向かおうとする強さ、震災後のいまも続いている強さを感じ取りたいと思う。

田老の町中では、いろんな場所で「学ぶ防災」という幟旗を目にすることができる。たとえばここは防潮堤のガイドルートにある仮設トイレ。町中といっても津波被害地にはいまも事現場が広がるばかりで人影もまばらだが、もう数年前から、土埃が舞う田老の地でこの旗が風に抗って躍っている。

防潮堤の上にのぼれば、学ぶ防災ガイドの説明を受けている人の姿を見かけることもよくある。あえて言うなら、旅人の目線で見ればいまは何もない町。地元の人にとってはたくさんの時間や歴史や思い出が透視できるような大切な場所。そしてまた苦しくてつらい場所。旅人はどうしてここにやってくるのだろう。なぜ街の人達は苦しい思いを押してガイドをしてくれるのだろう。

工事関係者と時折、漁港の方に走っていく軽トラを見かけるくらいの閑散とした町でしばしば見かける、ガイドとガイドを受ける旅人の姿。これはどういう意味?

「学ぶ防災」。学んでほしい防災。絶対に生きのびてほしい防災。ひとりでも多くの人に伝え続けたい防災。もう誰もこんなつらい思いをさせたくないから伝えていく防災。ひとが生きている力強さを教えてくれる防災。学ぶ防災という幟旗に記された言葉にはたくさんの意味があるのだと思う。自分にはいまはそんなことしか言えないけれど。

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