東北、この一枚。(5)吉浜の津波遺構

iRyota25

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2013年7月19日 右は昭和三陸地震の津波で破壊された神社の鳥居の残骸。もともとあった場所から移されて2008年に石碑とともに設置された。今回の津波でもほぼ浸水域ぎりぎりだった。
2013年7月19日 右は昭和三陸地震の津波で破壊された神社の鳥居の残骸。もともとあった場所から移されて2008年に石碑とともに設置された。今回の津波でもほぼ浸水域ぎりぎりだった。

岩手県大船渡市の中心部から国道45号を北へ向かうと、釜石市との境界手前に吉浜という町がある。中華料理で珍重される乾鮑「キッピンアワビ」の産地として知られる町だ。ちなみにキッピンとは吉浜の中国読み。吉浜産の乾鮑は世界一の品質と高く評価されてきた。

吉浜の町にはもうひとつ有名な物語がある。それは、明治三陸地震(1896年、明治29年6月15日午後7時32分発生)以来115年にもわたって津波対策の教えを継承し続けたこと。今回の大津波では、場所により20mを超える津波が押し寄せたが、吉浜は大きな被害をまぬがれた。

吉浜は明治三陸地震の津波で家屋の40%が流出し、人口の約20%にあたる204人もの命を失った。震災後、村の有力者が中心となり高台移転を進めたが、昭和三陸地震(1933年、昭和8年3月3日午前2時30分発生)でも、25%の家を失い、3名の死者を出してしまう。

その経験から、役場や道路などの高台移転を徹底し、防潮堤も建設した。居住地となった山沿いの斜面と浜辺の間の低地は、住民が移り住むのを防ぐため、田んぼや畑として利用することになったという。

冒頭の写真はそんな津波防災の教えを後世に伝えていくため、2008年5月に設置された新山鳥居の残骸と石碑。
石碑には次のように記されている。

津波の追憶

昭和三陸大津波
昭和八年三月三日三時十五分襲来
 新山神社参道入口の鳥居が第二波
により被災、津波の恐ろしさを生々し
く物語り、残骸として此処に鳥居の
一部が存在する。(鳥居跡地はこれより
東側十mの位置)
 現在地における津波遡上高は碑
頭より三m上と追想される。
 薄らいでいく津波の教訓を、後世に
引き継ぐべく、昭和三陸大津波追想碑
を此処に建立する。
平成二十年五月二十四日

大船渡市三陸町吉浜「津波の追憶」碑文

雨の中、圃場整備の工事が進む。
雨の中、圃場整備の工事が進む。
工事関係者の表情が心なしか明るい。
工事関係者の表情が心なしか明るい。

国道45号から吉浜の町に入って行って気づくのは、古い町並みが山の斜面に沿って広がっていること。メインストリートからはほとんど海は見えない。高台移転が徹底されていたことを感じる。

浜へ下る道の上からは、今回の津波で大きな被害を受けた浜へ続く低地が広がる。一見すると甚大な被害を受けた場所のように感じられるが、ほとんどが農地として利用されていたため、被害は少なかったという。工事現場の看板にも「被災したほ場(田んぼなどの耕地)をなおしています」とあった。

大きな被害をまぬがれた町で伝えられてきたのは、巨大な堤防をつくるということではなく、生活の場所を移転するというもの。そして、将来の人々が再び低地に移住しないように、教訓を継承していくことだった。

新山神社の鳥居基部と津波碑文

大船渡市三陸町吉浜本郷

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