2016年から2017年へ。今年の成人式の日。この空を飛びゆく者たち

iRyota25

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東北の空を飛ぶ若いカモメ
東北の空を飛ぶ若いカモメ

田舎の方の公民館に行くと、部屋の長押(壁の上の方に渡された横木)の上に、ずら〜っと額縁入りの写真や賞状が飾られていたりする。明治のころの初代村長以下歴代村長の写真だったり、官公庁から贈られた感謝状だったり、町民運動会で「右の成績をおさめましたので」との表彰状だったり。そんな中に、お祭りや行事の記念写真が飾られていることも珍しくない。

市の中心部にあるコミュニティホールで成人式が行われた日、ある公民館を訪ねたら、長押の額縁に2017年の成人式の記念写真がもう飾られていた。

「だって、今日が成人式なのでは」と地元の人に聞いてみると、

「市の成人式は今日だけど、うちの集落ではずっと以前から毎年1月3日に成人を祝う集いを続けるんだ。写真は先週の成人の集いの出来立てほやほやの記念写真だよ」と、にこやかに、そして誇らしげに話してくれた。長押の上には、成人を祝う会の記念写真だけで1つの壁面がいっぱいになるくらい並んでいる。

「うちの方じゃ毎年1月3日って決めてるからね、新成人のほとんど全員が参加してるよ。市の成人式に出られない人でも集落の成人式には出てくれるくらいなんだから」

「新成人の人がね、自己紹介で自分の名前を言うだけじゃなくて、どこんちの者ですとかとか、誰それのの孫ですとか言うと、どっと盛り上がるんだ。顔だけ見ても分かんねくても、あー、あそこんちの童(わらし)っこか。ずいぶん大きくなったな~、ばあちゃんにソックリだなあとか」

そして長押に並んだ写真を見上げる。「あー、おめえの父ちゃん、ここに写ってっぞ」「ここで澄ましてるんの、おめえの母ちゃんだぞ」って。

新成人たちは、はにかんだり苦笑したり。顔は見知っていてもあまり話したことのなかった地域の人たちからの突っ込み話を通して、地域の一員として受け入れられていく。若者たちも「生まれ育った場所」というものをもう一度意識するようになるのかもしれない。

今年の新成人は、当時中学生だった

公民館に飾られた新成人との祈念写真を地域の人たちが誇らしげに語ったのは、長く続けられてきた歴史ということだけではないらしい。

長押の上に飾られた成人の日の集いの記念写真は、平成23年1月のものから2年分のブランクがあった。23年の隣に飾られているのは25年1月のもの。

昔からずっと並べられてきた写真を見上げていると、話は自然と震災の頃のことにもなる。やはり歴代の写真がずらりと並べられた別の地域の集会場で、写真を見上げて昔話を聞かせてもらっていた時も、「これがうちのオヤジの若い頃で」なんて話に続いて、「隣に写ってるのは○○さん。祭りのときはいつも先頭で引っ張ってくれたんだけど、震災で亡くなってしまってね」

被災地ではおそらく、どこに行っても同じような言葉が語られているだろう。成人式やお祭りの写真を見ていても、そこに写っているのに今はいない人の顔がある。

「でもな、今年の成人の祝いに参加した新成人たちは頼もしかったんだぞ」

そんな力強い声もあった。

「なに、去年までと比べるわけじゃないし、このところの若ものたちに共通することではあるんだけどな」と前置きして、公民館の職員がこんなことを教えてくれた。

「司会進行役がいらないくらい、みんなしっかり話すんだ。大学の薬学部で勉強していて、将来は地元に帰ってくると宣言した子がいた。地元で看護師になるために勉強しているって子もいた。公務員になるための勉強している子もいた。あれだけの大きな災禍に見舞われたのだから、町が再起するために自分はここに帰ってくるんだって若ものたちがいっぱいいたんだ」

東北で被災した多くの地域は過疎地域だ。過疎と指定されていない地域でも人口減少は深刻だ。過疎がなぜ起きるか。ある町である日突然、子どもが生まれなくなってしまうわけではない。進学や就職で地域を離れた子どもたちが、生まれ故郷に戻って来なくなることで、次第に若い世代が少なくなることでやがて子どもの数が減っていき、気がつけば人口減少に歯止めがかからない状況になる。

人が減れば地域の産業も苦しくなる。働き手が少なくなるのみならず、商店のお客さんも減少してしまう。ますます地域経済は苦しくなり、そのためさらに地域に戻ってくる若者が減少する。

元々——、東北の被災地では、高校を卒業すると仙台や首都圏に出て行く人が多かった。そして、そのまま故郷に戻ることなく暮らしていく人が多かった。だから震災の前から地域の疲弊はすでに否定できない状況だった。だから、世代を追うごとに故郷に戻ってくる人は減っていた。場所によって違いはあるものの、東北の被災地の概況がそうだったことは否定できない。

今年の新成人たちは、震災当時中学2年とか3年だった世代だ。震災から間もなく6年という時間の流れは、まだあどけなかったであろう彼ら彼女たちを、「将来は故郷のために」と考える人たちに成長させたということなのだろう。

頼もしい話だと思う。辛いことや厳しい現実が多々あった中、そんな新成人たちが誕生している。敬服するばかりだ。人間の真価を示している話であると思う。

さはさりながら

今年新成人を迎えた若い人たちが、たとえば医療関係をはじめとする資格取得を目指しているというのは、あるいは故郷での仕事探しが厳しいとの意識の反映なのかもしれない。卒業後に故郷に戻るにしても、生計を立てて行くためには資格が不可欠だとの見通しによるということは十分考えられる。

福島の知人の甥っ子にも、福島の再建には住宅の仕事が不可欠だからと、宅建の資格をとってJターン(直接の故郷ではなくてもその近くの都市にUターンすること)した人がいる。

震災後、東北で中学生の学習支援を行ってきた知人からも、進学の目的は資格をとるためという子どもたちが過半数をはるかに超えているという話を聞いたことがある。

若いうちから現状を見極め、将来の目標を明確にしているのは頼もしい限りだ。しかし、ふと疑問に思うこともある。それは、○○師や○○士、それに市役所の職員だけで町は成り立つのだろうかということだ。

若い世代が地域に帰ってくることは、人口減少に歯止めをかけ、町の活気につながるいいことだろう。しかし町に仕事、もっというなら、師業や士業、公務員以外の産業が生まれてこない限り、将来は見通せない。

長押の上に飾られた成人式の写真を眺めながら、「若い人たちが戻ってくるためには、町に仕事をつくっていかなければならないってことですよね」と発言したのは、これまで出て行くばかりだった若者たちの間で故郷に帰ってくる機運が高まっていることを喜ぶ地元の人たちにしてみれば、白けてしまう話だったに違いない。

しかし、UターンやIターンする人たちが生活して行くだけの仕事を「増やす」あるいは「創っていく」こと抜きには、被災地の再生や復活は望めない。

そしてその猶予は、ない。

2017年、震災から6年になる成人式の日。よろこびとともに大人として求められているものの厳しさを思った。

[※ 写真のこと]このブロックの最初に掲載したカモメの写真は、冒頭のカモメとは別のカモメ。遠くから近づいてくる時には、足に釣りの仕掛けか何かが引っかかっているのかと思ったが、左足を怪我しているカモメだった。どうして傷ついたのか、理由は分からない。それでも他のカモメたちと違うことなく、雄々しく悠々と頭上を飛び越えて行った。

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