花曇りの隅田川、観光客であふれる浅草・吾妻橋の一本上流にかかる言問橋の2015年3月の景色。「春のうららの~♪」と口ずさむには少し肌寒かったが、ちらほら桜が咲き始めた隅田川沿いに集う人たちの間には春めいた雰囲気が広がっていた。
言問橋――。どこかロマンチックなその橋の名は、平安時代に在原業平が詠んだ和歌に由来するとも言われる。
橋銘板がある橋の袂の石(親柱というらしい)があるのは、首都高速6号線の高架下。写真では人通りはまばらに見えるが、墨田区と台東区をつなぐこの橋を行き来する人は少なくない。吾妻橋は観光の人が多いが、この橋は地元の人の生活の道のような印象。
対岸に見えるのは浅草の町並み。かつては(いまも)靴の問屋が立ち並んでいた辺り。
振り返ると東京スカイツリーが高い。
東京スカイツリーが出来てから浅草の町は変わった。観光客の数が目に見えて増えた。スカイツリーを楽しんだ乗客を乗せて、大型バスが浅草の観光バスターミナルに向けて走っていく。
今では下町と呼ばれる浅草区(現・台東区)と本所区(現・墨田区)だが、この界隈はかつての東京でもっとも人口が集中していた土地。人が多いだけでなく、江戸から続く文化の中心地でもあった。そんな浅草と本所向島を結んでいたのが言問橋。
その言問橋は、今では東京スカイツリーと浅草をつなぐ観光の橋。
その言問橋は、1945(昭和20)年3月10日未明、火焔地獄となった。
3月10日の東京大空襲を体験した画家の狩野光男さんが描いた、その夜の言問橋。
絵を拡大してよく見てほしい。橋の手前には立ったまま燃えている人間が描かれている。橋から隅田川に飛び降りている人もいる。橋の袂近くには消防自動車の姿もある。そして橋の真ん中辺りは、1人ひとりの人間を細かく描ききれないほどの火の海だ。火の海から炎が怪しく立ち上る。燃えているのは人間だ。この橋の上で数えきれないほどの人間が生きたまま、そのまま焼け死んでいっていたのだ。
約300機ものB-29の大編隊は、日本軍の迎撃が微弱であるのを見越して、防御用の機関銃や弾丸まで下ろし、その分大量の焼夷弾を搭載して東京上空に侵入した。それまでB-29の爆撃は、サイパンやテニアンの基地からいったん富士山を目指し、そこからルートを東にとって、偏西風に乗って西から入ってくるのが常だった。ところがこの日、爆撃機の編隊は富士山を目指さず北に向かったので、東京では空襲警報も解除されてしまった。東京が目的ではないと判断したのである。
何の妨げもない中、B-29の大編隊は1000mほどの低空を飛んで東京上空に南東方向から侵入。まず、テルミット爆弾という、水に漬けても消えない照明弾のような爆弾を爆撃目標の外縁に投下した。後続の本隊となるB-29は、満載した日本の木造家屋を焼きつくすために特別に開発された焼夷弾を、その目印の内側エリアに風下側から順に投下していった。西からの季節風(からっ風)が吹きすさぶ町に投下された焼夷弾は、たちまち東京の中心街を火の海に変えた。
隅田川東岸の本所あたりの人たちは、「浅草側に渡れば火の手から逃れられるのでは」と希望をいだいて言問橋に殺到した。しかし対岸の浅草もすでに火の海だった。浅草の人たちは、「本所に逃れれば助かるかもしれない」とやはり言問橋に殺到した。両岸から橋に押し寄せた人たちで橋は身動きがとれない状態になった。
概算で1800tの焼夷弾が投下されたと言われる。町を焼きつくす炎から立ち上る煙は、成層圏まで達したとされる。地上では炎の竜巻、火災旋風が暴れまわっていた。炎が、炎として川を飛び越えて燃え広がるような、想像を絶する大火災。まさに火焔地獄だった。
言問橋に殺到して身動きがとれないでいた人たちは、生きたまま突然ぼっと燃え上がり、その炎が周りにいた人々にどんどん燃え広がっていった。消防車はしきりに放水を続けたが効果はなく、やがて消防車さえもが焼け落ちた。橋から川に飛び込んだ人の多くは冷たい水の中、折り重なるようになって凍死した。
この空襲から遡ること22年前、関東大震災で起きたのと同じ悲劇が繰り返された。大震災の日の夕方から夜にかけても、隅田川にかかる橋の両側から殺到した多くの住民が、身動きが取れないまま焼け死んだ。言問橋は大震災の教訓を活かして、大火災の悲劇を繰り返さぬようにつくられた幅の広い鉄の橋。震災復興事業の象徴としてつくれた橋だった。それでも悲劇は繰り返されたのだ。アメリカは東京空襲の作戦立案に当たり、関東大震災の火災被害の状況を研究していたとも言われる。
わずかに生き残った1人として、この絵を描いた狩野さんは、川に浮かぶ糞尿運搬船によじ登って辛くも命をつなぐことができたのだという。
もう一度、冒頭の言問橋の親柱の写真を見てみよう。
石が黒ずんでいるのは、71年前の大火災の痕跡なのだそうだ。
橋の名のゆえんとされる在原業平の和歌は、愛しい人の消息を隅田川の鳥に尋ねるというものだ。
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
在原業平『古今和歌集』羇旅の部
東京の中心部、下町エリアを灰燼に帰したこの夜の爆撃の犠牲者は10万人を超えるとされているが、その実数は定かではない。
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