息子への手紙(2015年11月6日)北九州、高齢化の町の将来

iRyota25

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今日は「東北からの手紙」ではなく、福岡県北九州市からの手紙だ。

JR小倉駅ビルの土手っ腹からモノレールが発着する。その姿は未来的だが。
JR小倉駅ビルの土手っ腹からモノレールが発着する。その姿は未来的だが。

アドベンチャーみたいな交通事情

レンタカーを借りて小倉(おぐらではなく「こくら」)の町を久しぶりに走って、今回気づいて驚いたことがあった。かつて北九州というと、自動車運転のマナーが悪いことでは全国区だった。制限速度は守らない。無理な追い越しをする。改造車が多い。ちょっとしたことでやたらとクラクションを鳴らす。(初めてニューヨークに行った時、まるで北九州のような街だと思ったのを思い出す。また別の話だが数十年前のこと、タクシーに乗って運転手さんに「急いでください」とお願いしたら、交差点ではない赤信号でいきなり歩道に乗り上げて、赤信号をバイパスしてくれたことがあった。さすがにびっくり仰天したものだ)

昔から北九州は交通無法地帯のようなものだった。暴力団も恐いけど、それ以上に一般ドライバーの運転の方が恐かった。今はさすがに数十年前のタクシーみたいなことはないし、クラクションもそれほど騒々しくはない。

今回気づいて驚いたというのはそういうことではない。暴走気味の車は今も変わらず少なくない。しかしその一方で、制限速度よりも10キロ以上低速の、のろのろ運転の乗用車が圧倒的に増えたのだ。

50キロ制限の道路を80キロでぶっ飛ばしている車がいる一方、30キロくらいしか出ていないのではないかという車が走っている。片側二車線、三車線の広い道路のあらゆる車線にのろのろ車は存在する。遅い車の後続が、車線変更しようとするところに暴走車が突っ込んできたりする。むちゃくちゃ危ない。

のろのろ車の比率は、日中だと5割近いかもしれない。国道10号線で右折して駐車場に入ろうとして、いったいどれくらい待たされたことか。直線区間だったが、低速車と高速車が絡み合うようにして走って来るのは恐怖以外の何ものでもなかった。

むちゃむちゃ遅い車がたくさん存在する理由は、1970年代頃に北九州で就職して、そのままこの町で家庭を持って暮らしてきた人たちが、まとめて高齢者と呼ばれる年代に入ったからだ。ある一時期、突出して勤労者人口が増加したことが、この町の急速な高齢化の背景にある。統計を確認するまでもなく、そのことはこの町では明らかだ。

東北の被災地に行くと、震災前から高齢化や人口減少が進んでいたという話をよく耳にする。しかし高齢化の急速な進展という点で東北の比ではないことも明らかだ。

町なかを歩いていると、時々何人もの、それも十人以上の老人の行列に出くわすことがある。その最後尾は病院、それも整形外科医院から出てきた人たちだったりする。腰痛や膝痛で診察してもらった人たちが、バスの時間に合わせて医院の待合室からぞろぞろと出てくるのだ。

最近の若い人は知らないだろうが、一時は全国的に有名だった「小倉祇園太鼓祭」が、町場の子供人口の減少から維持できなくなり、町内ごとに山車を出してきた伝統を破って、企業や役場の山車が参加するようになってすでに20年以上になる。人口構成の変化は、歴史の中で受け継がれてきたものまで破壊する。

人口が100万人を切ったのはもうかなり前のことだが、いまのところはまだ97万人を切るには至っていない(2015年9月30日現在972,192人)。人口流出の超過といういよりは、出生数と死亡数の差による自然減と見ることができるかもしれない。しかし、それは同時に、仕事をリタイヤした人たちの割合が増え続けることを意味している。

小倉駅前の祇園太鼓像(昭和34年、1959年に建立後、現在地に移設)
小倉駅前の祇園太鼓像(昭和34年、1959年に建立後、現在地に移設)

過去の澱がそのまま結晶したような町

1970年代、北九州市は九州初の政令指定都市として「日本七大都市」に数えられていた。福岡市や広島市、仙台市、浜松市などが政令市になるよりずっと早く、大都市としてのお墨付きをもらった町だった。だけど当時から全国的な知名度は低くて、福岡と博多が混同されるのと同様、北九州市は九州北部、つまり福岡のことかと思われることが多かった。

それはさておき、どうして北九州市が全国7番目の政令指定都市になったか。それは、筑豊の炭坑や八幡製鉄所(新日鉄)などの産業が栄えた時代、たくさんの人々が労働者として流入して、急激に人口が増加したからだ。五木寛之の『青春の門』なんて言っても、若い人たちはチンプンカンプンだろうが、筑豊の炭坑で働く人たちにとって北九州市は憧れの都会であり、都会だけがもつ華やかさと薄情さの象徴のような町だったのだと思う。

父さんは北九州市が誕生する以前、小倉市だった頃の生まれだけれど、子供の頃の北九州、なかでも小倉の町の繁栄ぶりは幼心にも印象的だった。今日は詳しくは説明しないが、五木寛之が作詞し山崎ハコが歌った『織江の唄』の歌詞「明日は小倉の夜の蝶」というのが、まさにその時代の雰囲気を象徴している。澄ましたような都会風の仮面は薄っぺらで、剥がすとゴミ溜めみたいな生々しい世界が広がる。裏表のある二重の世界を百万都市の大人たちが溢れ返るように行き来して、町には人間と人間が発する湿った熱気が充満していた。平日でも夜の7時頃の商店街は、前が見通せないほどだった。だからこそ、その後の凋落ぶりとの落差も大きい。

インバウンド対応の背景にあるもの

もうひとつ驚いたことがある。それは、中国や韓国からの旅行客への対応が驚くほど進んでいることだ。駅や温泉施設の自動販売機では、日本語に合わせて中国語やハングルの説明書きが当たり前のように表示されている。

日本語・英語・中国語・ハングルの4言語による案内表示や看板はもちろんのこと、町なかには中国語やハングルだけの看板まである。

JR小倉駅前では、歩行喫煙禁止を知らせるアナウンスに中国語や朝鮮語の翻訳版も流されている。「違反した人には1,000円の科料が科せられます」という内容も翻訳されているのだろうか。海外からの旅行者はそれをどんな気持ちで聞くのだろうか。

いま海外からの旅行者「インバウンド」を増やそうという取り組みが日本各地で進められている。北九州市を含めて九州北部は大陸に近いし、飛行機でなくてもフェリーの便まであるくらいだから、インバウンド対応の先進地域であることは間違いない。

ただ、わざわざインバウンド対策にお金をかけなくても、世界的に知られた名所なら、観光客に対する吸引力はもともとあったに違いない。かつて観光都市ではなかった町がインバウンドに力を入れるということは、費用やマンパワーを投入してでも、外国からのお客さんがのどから手が出るほど欲しいということに他ならない。

そんなところにも、高齢化の進展が経済に影響が出るほどになっている事情が透けて見える。「内需」が先細りだから、海外に注目する。インバウンド対応が日本中で進められているのは、つまりそういうことなのだ。

北九州の未来は日本の未来の縮図かも

かつての百万都市は、これからどんな未来に向かうのだろうか。これは炭坑や鉄で栄えた町が凋落した行く末ということだけではなく、高齢化日本の象徴的な意味合いを持っている。

私感だが、おそらく「百万都市」が市の代名詞だった頃のような状況が再びやってくることはないだろう。人口とか工業生産とかいった「規模」ではない、新しい都市のアイデンティティを見つけなければ先行きは明るくない。そしてこれもまた、日本中の多くの都市に共通することだと思うのだ。

経済のあり方が変わってしまうのは必然だろう。しかし、それに伴って、激変することがある。教育だ。20世紀後半の教育は、高成長を支える人材を育成することに特化したものだった。高度成長などありえない以上、日本社会が人材に求めるものも当然変わると考えるべきだ。

20世紀中盤から半世紀以上にわたって日本人がほとんど総意のように信奉してきた経済成長を政策として否定することは、選挙のことを考えれば政権にとって容易なことではない。今後しばらくは表向きには経済成長は政権・与党にとって欠くことの出来ない宣伝文句であり続けるだろう(どれだけ真剣に取り組んでいるかどうかは別問題だ)。それに対して、教育に関する動きはすでに顕在化している。改革、あるいは改悪はすでに断行されつつある。

社会の先行きが不明瞭であるということは、現在学校に通っている若者たち、これから学校に通うことになる子供たちが苦難の矢面に立たされるということだ。

教育に限らず、過去から長く続く慣性力を軌道修正するのは容易ではない。その一方で行政や政権からは先行き不確実な改革が押し付けられるわけだから、教育現場は10年単位で混乱や膠着が繰り返されるかもしれない。過去の常識が必ずしも通用しない中、何を学び、どんな大人を目指すのかは、自分でつかみ取っていくほかない。もしかしたら学校に期待することができない時代がやってくるかもしれない。少なくとも覚悟だけはしておいた方がいい。

そんなことを考えながらレンタカーを返却して、駅ビルの中を歩いていたら、夕方ということもあってか、ファッションビルの中には若者の姿が目立っていた。日中の老人ばかりの様子とは様変わりした感じすらあった。

降車駅から自宅に向かって歩いていたら、小雨が降り出した中、遠くから「ダメダメ、ダメダメ」という小さな子供たちの声が聞こえてきた。近づいていくにつれて、ダメダメではなくて「雨やめ、雨やめ」という声だとわかった。幼稚園か小学校低学年か、2人の少女の声に男の子の声も一緒になって、「雨やめ」の合唱は小雨の雨雲に届くくらいに大きくなった。

子供たちの声があること、町に若者たちの姿があること、それが町の印象をまったく別のものにするということを思い知った。

その時感じた不思議な爽やかさは、「親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」と坂口安吾が語った言葉に通じる。

 親がなくとも、子が育つ。ウソです。
 親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。

坂口安吾 「不良少年とキリスト」青空文庫

「親」を「教育」に置き換えて読んでほしい。もはや子供時代を卒業して何十年も経つ人々の理屈や教条が通用するような時代ではない。安吾がこれを書いたのは昭和23年のこと。戦後の混乱の時代だった。同じように、いまこの国では、これまで日本人が経験したことがない変化が始まっている。

だからこそ、「親があっても、子が育つ」と豪語するくらい元気な子供がどしどし登場してくれる可能性もあると思うのだ。なんと頼もしいことだろう。人口減少とか高齢化などというと、それだけで寂しい気分になってしまうが、大人が頼りにならない酷い時代の環境そのものが、子供たちを逞しくしてくれるのであれば、必ずしも悪い話ではない。

通勤路線に新車両が大量に導入されたJR九州だが、こんな列車も走っている
通勤路線に新車両が大量に導入されたJR九州だが、こんな列車も走っている

百万都市の未来がどうのなど、大した問題ではなかった。産業の斜陽化や急速な高齢化で日本をリードしてきた北九州市ではあるが、時代の変化に負けないくらい強い子供がたくさん育ってくれればそれいいのだ。町は勝手に息を吹き返す。

復活とか復興というのは経済とか土木建築の問題ではなく、実は教育の問題だった。いや上から与えてやる式の教育なんかではなく、子供が自分で成長していくことこそが、未来というものの実体なのだ。

これは北九州でも東北でも、日本中のあらゆる場所に共通すると思うのだ。

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