豪快なホームランで甲子園を沸かせた男、清原和博。
甲子園通算ホームラン13本はおそらく今後も破られることがない記録でしょう。
そんな清原和博選手は意外にも?実は誰よりもチームチームバッティングに徹した男と言われているんです。
小中学校エースで4番、清原少年がピッチャーを諦めるきっかけになった彼との出会い
小学校、中学校とエースで4番だった清原少年はPL学園野球部に入部。小学生の時に完全試合を成し遂げ、中学時代シニアの大会では3打席連続のホームラン。
藤井寺球場で3本すべてが120メートルを超えていたというからすごすぎです。
また日生球場での練習試合ではマニエルネットと呼ばれるネットに突き刺さるホームランを打ちました。このマニエルネットは近鉄のチャーリーマニエル選手の打球が場外に飛び出さないように張られたネットでこのネットまでの距離は150メートルありました。
当時から打撃センスはものすごいものがありましたが小中学校とエースだった彼はPL学園でも自信を持ってピッチャーを希望しました。
ところが清原はある男との出会いでピッチャーを諦めることになります。
その男とは桑田真澄です。
新入部員27人、そのほとんどが中学時代エースで4番という中、際立って目立つ存在ではなかったといいます。当時の清原はすでに186センチ、172センチだった桑田とは15センチ近い身長差がありました。
そんな桑田の投げるボールを見て一目で『こいつには勝てない』『こいつこそがピッチャー』そう思ったそうです。
高校1年の春、桑田は竹バットで打たされても柵越えを連発する清原に恐れをなし、清原は遠投を命じられたというのに一直線のボールでライトフェンスに直接ぶち当てる小さな天才少年に驚愕したといいます。
これがのちに、甲子園を沸かせるKKコンビの始まりです。
この話はまた今度詳しく書いていきたいと思います。
清原和博・甲子園全成績
ホームラン13本。初めに言いましたがおそらく破られることがないでしょう。
この記録に挑戦するには、まず甲子園に出場しなくてはなりません。
清原はPL学園で1年生の夏から3年生の夏まで5季連続、26試合出場しています。
最後の夏はもう清原和博の完成形ですね。手がつけられません^^;
16打数10安打ホームラン5本。打率は.625です。
そんな清原和博をPL学園の中村順司監督はホームランを打った清原よりもフォアボールを選んだ清原をよく褒めていました。
チームバッティングに徹した男
高校時代、そしてプロ野球時代も清原和博は豪快なホームランのイメージが強いです。しかし彼ほど「フォア・ザ・チーム」に徹した男はいないと言われています。
『自分本位にやるなら、もっと本塁打数は多かった。彼ほどの男がチームバッティングに徹する、それがPLの強さの1つ』
当時のPL学園の中村順司監督が言った言葉です。
『キヨほどチームのことを考えているバッターはおらん』 森祇晶(元西武監督)
『チームバッティングの意識はジャイアンツでもナンバーワンです』 長嶋茂雄(元巨人監督)
小学校、中学校、そしてPL学園でチームバッティングの大切さを教わった彼は、プロに入ってからも『チーム第一優先』は変わりませんでした。
地味なところで言うと通算フォアボールも歴代4位の1346個。これは王、落合、金本に次ぐ立派な記録です。
無冠の帝王と言われ続けた清原和博
彼は無冠の帝王と言われ続けましたが勝利打点1回、最高出塁率のタイトルを2回獲っています。どちらも立派なタイトルだと思います。
とにかくまわりからはいろいろ言われ続けましたが、それは彼を見続けてきたファンの期待でもあったと思います。彼ならもっとやってくれるだろうと。
清原和博はどんなことよりもチームが勝つことを優先しました。
本当はタイトルも獲りたかったかもしれません。
いや、もしかしたらそれほどタイトルにこだわっていなかったのかもしれません。
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