棄民。非常にイヤな言葉である。しかし、この棄民というものを正当化しようとしているとしか考えられないことが、今の世の中いろいろなところで推進されている。
放射能汚染地域への「帰還」の閣議決定
6月17日の報道で、市町村全域の避難解除として初となる楢葉町の避難支持解除が今年のお盆前に実施されるとの報道があった。毎日新聞Web版の記事を引用する。
政府の原子力災害現地対策本部(本部長、高木陽介・副経済産業相)は17日、東京電力福島第1原発事故で全町民が避難する福島県楢葉町の避難指示解除について、8月中旬のお盆前に実施する考えを明らかにした。避難指示が解除されるのは田村市の都路地区と川内村東部に続き3例目で、全町村避難が続く県内7町村では初めて。
これに対して町議からは「時期尚早」との声が上がっていると記事は伝える。テレビのニュースでも、環境が整っていないと訴える町長の声と表情が紹介されていた。(ちなみに、原子力災害現地対策本部本部長の高木陽介・副経済産業相は公明党所属の衆議院議員)
このニュースに先立ち政府は、居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示を17年3月までに解除すること12日に閣議決定している。
避難指示解除の条件となるのは、年間20ミリシーベルトの被爆線量に収まる見通しが確かであることだという。
地元の人以外で、被爆線量に疎ければ、20ミリシーベルトがどのような線量なのかは理解できないかもしれない。日本の法律に記されている被爆線量の限度は、年間1ミリシーベルトである。20ミリという数字は法律には何も記されてない。国際放射線防護委員会(ICRP)が、事故など非常の際には1ミリ〜20ミリまでの間で、なおかつできるだけ低い線量が望ましいとしている「上限」である。
低線量被曝が人体にどのような影響を及ぼすかについては、学者の間に定説はない。行政として本来指示すべき基準は、日本国の法律に記されている1ミリシーベルトのほかにはない。にも関わらず、法律に基づいて行政を執り行うべき機関のある意味ではトップといえる(たしかに「私が最高責任者」という発言もあるくらいだ)内閣が、法を破り、人々の健康に影響が及ぶ危険が否定できない場所への帰還を勧めているのである。
生まれ育った土地に早く戻りたいという気持ちはもちろん強いだろう。しかし、それを逆手に取って危険度の判断がつかない場所に帰還させることを強いることが許されていいのか。故郷へ戻った人たちがどのような生活を再建させて行くのか、現時点では分からない。しかし、健康についてはもちろん、地元のでの生活基盤の整備も何も進まない中で、帰還だけを「閣議決定」するというのは、棄民に等しい暴挙としか言いようがない。まずは安全の確保であり、生活基盤の安定であり、その土地で子々孫々生きて行ける環境を整備することが帰還の大前提ではないか。
「賠償の打ち切り」が透けて見えるような帰還を閣議決定する人たちの心根が理解できない。少なくとも、人々を統べる立場にあると自認する政治家のなすことではない。
自民党の東日本大震災復興加速化本部(額賀福志郎本部長)が今年5月14日にまとめた提言には同様の帰還を2016年度までと明記されていた。その提言にあった期間を1年先延ばししたということなど、茶番以外の何ものでもなく実質的に何の意味もない。
被災3県も復興予算に地元負担を
多くのマスコミは、この件に関しては総論賛成、地元自治体への理解を急げというスタンスだ。集中復興期間が終わる今年度までを総括し、来年度以降は被災した自治体の自己負担を進めようというお話。しかし、国民から特別に税金を集めてまで支度した復興財源が、まったく関係ない全国の自治体で使われてきたことを忘れた人はよもやいないだろう。
また、繰り返し報道されてきた、復興予算の積み残し(使うはずの予算が使わずに残ったこと)の大きな原因が、建設工事などが集中したことで人件費が材料費が高騰したために、当初予算と企業側の採算がとれなくなったために入札不成立が多発していることも周知のこと。その上、オリンピック誘致によって、ただでさえ限りあるリソースの奪い合いがさらに深刻化して、被災地の復興がタイムテーブル通りに進んでいないことも明らかだ。
そんな事態に陥らない手だてが打たれたという話を聞いた人があれば教えてほしい。当然起きるべきことに無為無策だったのは誰なのか?
オリンピックというとまるで錦の御旗みたいなものだから、マスコミも批判するのは難しいだろうが、オリンピック誘致によって発生する建設需要は何も新国立競技場建設のような耳目を集める事業ばかりではない。メインスタジアム以外にも予定されている競技場の新設や整備、周辺の道路などのインフラや市街地整備など、たいへんなマンパワーと資力が投入されるのは、誰だって少し考えれば分かるだろう。
それでも、オリンピック誘致の弊害を指摘する声はほとんど聞かないのは不思議でしかない。大友克彦の「AKIRA」が、まるで戦災か震災で破壊されたようなネオ東京での2020年のオリンピック招致と、その後の破局(鉄雄とAKIRAの覚醒でネオ東京は破壊され、あまつさえ米軍まで上陸戦を仕掛けてくる)を描いているが、ネット上で蒸し返され続けているのは「なぜ「AKIRA」は2020年の東京五輪を予言できたか」などという話ばかりだ(2015年6月の頃)。
ただでさえ、復興のために全国から多くの労働力や資機材が投入されていた(それでもスケジュール通りの工事が難しい状況だった)状況に被災した地域があった中で、国を挙げてオリンピックを誘致する必要があったのかどうか、はなはだ疑問に思う。スポーツと平和の祭典を日本で開催することで、日本が元気になって、被災地も立ち上がるというのなら、その筋道を示してほしいものだが、具体像が示されたことは今日に至るまでない。「オリンピックが来ればうれし〜い」とか、「世界のトップアスリートが見られてうれし〜い」といったお望みはテレビを見るなり、海外の開催地に出掛けて行って体験すればすむだろう。
国内のスポーツ振興という目的を上げる人もあるが、オリンピックが来るから強化するという発想のどこに正当性があるのか、強化と誘致はそもそも別問題なのは冷静に考えれば自明のことだ。オリンピックが来た時だけ底上げできるようなスポーツなど誰も望まないのではないか。
かなり脱線気味になってしまったが、オリンピック招致を準備する段階での現実問題として明らかになっているのは、ただただ建設業界を中心とする一部業界での人件費と資機材の高騰ばかり。その一部業界が復興にぴったりバッティングしているのである。そこで利益を得るのは誰かと問いたい。
オリンピックからは離れるが、原発被災地で行われている除染作業では、労働者に支払われる労賃の元値(定義は難しいが、元請けが出す金額)は数万なのに、労働者の手元には1万数千円、下手をすると1万円以下でなおかつ宿舎・食事のお金を天引きされているという。その差額はどこに行っているのか。東京電力は説明しないのだ。個別企業の事情だという口実で。なぜ、原価が直接現場作業員に渡らないのか。その点もいまだに闇である。「原発ホワイトアウト」「東京ブラックアウト」から想像されるようなところに渡っていたらどうしようと、想像するだけで虫酸が走る。
東日本大震災で被災した自治体は、おしなべて人口流出と事業流出で税収が激減している。その状況の中で負担を強いることは、地域や地元自治体の切り捨てにつながることがなぜ見えないのか。行政を預かる人もマスコミも、もちろん「ニッポンの最高責任者」を自任している方もだ。なぜそのような優れた資質をお持ちの方々が、被災地への手当ての必要性を考えないのか不思議で仕方がない。
提言:地元の削減努力を再興に活かしては
どうしてもコスト削減をしたいのであれば、「復興予算として計上した金額から地元自治体の努力によって減額できた部分は、自治体の自己負担と見なす」とか「地元自治体の努力で減額できた分は、その努力に報いるために還付する」といった方針を立ててはどうか。地元には地元力がある。何も中央の大ゼネコンや著名な設計事務所、コンサルを使わなくても、地域で対処・解決・よりよりコスパを実現できるリソースはある。その活用を推し進めてはどうか。
原発再稼働という「棄民」
原子力規制委員会は。新規制基準は原発再稼働の「安全」を担保するものではないと明言している。しかし政府は新規制基準のことを「世界でも最も厳しい基準」と粉飾してアナウンスしている。粉飾というのは誇張でもなんでもなく、実質的には事故前の基準の一部修正に過ぎないからだ。
もし、次に原発がシビアアクシデントを起こした時、誰が責任を取るというのか。政府は規制委員会の基準は世界一だと言う。だから「やっぱり想定外」というのだろうか。一方、規制委員会は「安全だなんて言ってませんから」と開き直るのだろうか。
これも棄民と同様にイヤな表記ではあるが「フクシマ」を経験した日本人(もちろん広島と長崎に投下された原爆、さらに原発計画が推進される直前に経験した第五福竜丸事件をも、確かに自分たちの父祖たちの歴史の中で経験してきた人たち)にとって、原発の再稼働は「フクシマの再来」があってもいいとの政治判断を下されたも同然だ。
東京電力の原発事故で、今も苦しんでいる人がたいへんな人数いる。しかも、その人たちは、危険かも知れない場所(しかしそこは故郷なのだ)に帰還されようとしている。賠償金を節約するため。帰還を強いられている人たちには申し訳ないけれど、いま起きていることを分かりやすく伝えるためには、「棄民」というほかない。国なのか福島県なのか意味不明の行政機関なのか、主体が誰だか明かされぬまま、危険かもしれないけれどよく分からない場所に、お金の節約のために戻されてしまうのだ。
さらに外堀も埋められている。「なんであいつらばかり、たくさんの補償金を貰っているんだ。不公平だろう!」
被害者のコミュニティの分断。前世紀の公害事件から長く、行政が「手段」として伝家の宝刀よろしく用いてきたもの。
ため息しか出ない。でもため息なんて吐いている場合でもない。
なぜなら、原子力規制委員会も政府も、再稼働する原発の安全性を責任をもって担保することはないからだ。ということは、フクシマは繰り返されてもなんら不思議はないということなのだ。それが何を意味するか。第二・第三のフクシマが発生し、そこに新たな棄民が生まれるということだ。
たとえ、とうてい隠しおおせないほどの過酷事故が発生しなかったとしても、核の負の遺産は10万年、最近ではいろいろ未来の夢技術を駆使して数千年とか言うているが、それでも千年で40世代と計算して百数十から数百世代に渡って、「一旦何か起きたらたちまちカタストロフ」という負の遺産を遺すことになる。
これって、将来の子孫たちを人質にするのみか、彼ら彼女たちを棄民とする行為に他ならないのではないかな?
棄民、棄民と書き募ってけれど、ほんとうに為政者が民を棄てていいものなのか?
宮城県石巻市の雄勝町でこんな話を聞いた。町ではたくさんの命が失われた。助かった人の多くも今ではかつての町域に暮らしていない。戻ってくる人もいるが、人口は被災前のほんの2割か3割だ。人間は町にとっては血液のようなもんだろう。血液が足りなくて瀕死の状態になっているんだったら、その分、他から輸血をしなければなあと思うんだ。
たとえば国を人間の体とたとえて考えてみれば、大怪我をしてしまった時には、傷ついたところが元に治るように、全身から血液やら栄養やらが優先的に投じられることだろう。だって体の一部なんだもんな。傷が重ければ、しばらくはゆっくり体を休めて、患部の回復を促すようにするだろう。体の一部って、仲間だって言い換えてもいいんでねえの。
しかしどうだ。この震災の後に耳にすることのエゲツなかったこと。
日本の経済が回って行くことがひいては被災地の復興に役立つのですという被災地発の表明もあったけれど、それに乗じて経団連だの大企業のアライアンスが言い出しのは何だったか。「早く原発を再稼働しないと、日本の国際競争力が弱まる」の大合唱。2度のオイルショックをも乗り切った日本企業が、まるで献血すらいやがって、1円でも1セントでも収益を伸ばそうと血眼を上げていたではないか。
被災地以外の多くの地域でお祭りとか花見とかが「自粛」される中。多くの大企業が被災地に社員ボランティア送り出していた。出掛けて行った人たちはたくさんの働きとたくさんの得る物を胸にしたことだろう。でも、送り出した経営者たちのすべてが必ずしも同じ目線でいたのだろうか。
そもそも私たちは、たとえば勤務する会社とか、自分が住まう自治体とか、その先にある国家とか、ある種の権限をもっている立場に対して、何を付託してきたのだろうか。
棄民を考える上で、最終的な論点となるのは、この点に相違ない。
ひとりの人間ではなし得ないことができるから、人はグループを、コミュニティを形成する。企業の経営者は一方的に従業員を雇用しているのではなく、ともに何かを実現するために、従業員は企業のルールを守りつつ成果を目指す。コミュニティの構成員という立場から見れば、構成員たる個の安全や安寧とともに、コミュニティ全体の安寧、幸せを実現することを、コミュニティの中で権限を持つ存在に付託しているのに違いはないだろう。
かけがえのないもの。私たちが、たとえばコミュニティ、あるいは国家とかに託しているのは、あまりにも大切すぎて、場合によっては自分ひとりでは守れないかもしれないもの、と考えることができる。
それは、たとえば「ちょっと右腕が大けがしちゃったから、体の他のところに影響が出ないように切っちゃおうか」なんて判断ではあり得ない。もちろん、あまりに傷が深くて切断の判断が必要な場合であったとしても、切り(棄てられる)腕は自分の体そのものなのだ。当然、痛みもある。亡くした後の困難をも覚悟して、おそらくは全身体からの同意を得た上でなくなく切除に応じられないような、そういうものだろう。
しかし、いま行われている「棄てる」という行為は、そんな切羽詰まった状況下で否応無しに遂行されているものではない。
曰く、原発を再稼働しなければ国際競争力が……
曰く(言うてはいないが)、賠償の総額を抑えなければ……
曰く(言うてはいないが)、みんな復興進んでると思ってるし……
曰く(言うてはいないが)、関係ないと思ってる国民多いからいいじゃん……
日本全体の「国力」とか「経済力」とかが、ほんの少しだけ落ちたって、自然災害で大変な目にあってしまった仲間たちと一緒に頑張って行こうってことに、なんの戸惑いがあるのだろう。傷ついた仲間が復帰したら、もっとみんなが強くなれるっていうように、どうして思えないんだろう。
「あー、ここ傷ついちゃった。残念だけど切除ね。あーここもか、これもダメだね、切っちゃうか」なんてやってて、敢えて言うけど「國家」って何を守れるの?
棄民という言葉は震災の前から時々耳にしてきたが、言葉の使われる視点が変わったように思う。震災の前にはホームレスの人たちや非正規雇用の雇い止めで住む場所を奪われた人たちが「棄てられた人」というニュアンスで棄民と呼ばれていたように感じる。しかし、いまは違う。
いま、棄民という言葉に晒されているのは、為政者・行政・経営者(というのも、ブラック企業・ブラックバイトなどの問題を下敷きにして)も含めて、
「人間が人としてあるべき上で大切なものやこと、人権、コミュニティ、故郷、仕事、生活のインフラ、健康、そして家族を営むことなど諸々」を
故意に破却し、蹂躙してなお平然としている。その被害に直面している人のことだ。
日本は、国内難民と、国内難民のおそれのある人たち、そして現在はまだ命すら得ていない将来の国内難民予備軍(ただし将来には国外に放逐されて、20世紀的な意味での難民となるかもしれない)ばかりの国になってしまうのだろうか。
棄民とは、基本的人権を有すると表向きは言いながら、その憲法をすら尊重しない人たちによって進められている「悪しき社会変化」の中で顕在化してきた、人類史上まれに見る悪逆の「最初の犠牲者」と位置づけることができるのではないか。
東北には縁がありませんから、なんて言ってはいられない。たとえば首都圏で大災害が発生して、数十万人に犠牲になり、政府や企業の機能が1カ月近くも停止したらどうなるか。政府は国民をどうやって助ける? 東北で棄民をつくり出すような政府が。将来の世代に向けて棄民の時限爆弾を受け渡そうとする人たちが。
答えは簡単でしょ。明日、棄民になるのはあなたなのです。
◇以下は追記です。
世界が全体に幸福にならないうちは
このような話をしている時に思い出すのが、大川小学校、東日本大震災で多くの児童が失われなくていい命を奪われてしまった場所のことです。小学校のまわりにあった民家などはすべて流され、道すら分からなくなった後も、体育館の横にあった屋外ステージなのかな、その外壁に震災より前に卒業した子供たちが遺した壁画が残っています。
「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
元になった文章は少し表現が違うようです。しかし、この文を書こうとした小学生は、こうでなければならないと思ったのに違いない。そして、その言葉が、今も大川小学校に残され、この地を訪れる人にメッセージを送り続けているのです。
そしてこの言葉を見ると、同時に震災から大東亜戦争、戦前と戦後、そもそも明治維新のその後から日本人の中に受け継がれてきた意識について、鋭い批評を問うている佐藤健志の次の言葉も思い出すのです、「とはいえしかし」と。
しかし、おのれの手を汚してでも秩序や権益を維持しようとするのは、疑いなく大人の態度と言える。真の問題は、そんなアメリカを無条件に美化した「十二歳の少年」――すなわち日本人の未熟さに求められなければならない。
「震災ゴジラ 戦後は破局へと回帰する」佐藤健志 VNC 2013年
12歳の少年とは、日本を占領したダグラス・マッカーサーが、日本の民主主義の成熟度について喩えた言葉。アメリカ人が40歳なら日本人は12歳だと。(いまもそ評価はあまり変わってなさそうです)
たとえ12歳と揶揄されようとも、自分は賢治の言葉に引かれます。その方向に進む道があると確信します。12歳だろうがなんだろうがね。
安倍総理、「戦後」というもののアンビバレントな様々なものを一身に背負い込んでくれたという点に関してはすごいことだと評価します。しかし、戦前への回帰を美しい国という言葉で修飾しつつ、アメリカでの演説を公約のようにをハンドリングすることで、あなたのお腹が膨らみ上がったからには、やがて破裂してしまう他ないことを、ご当人であるあなたは知っているのでしょうか。
あなたの愛するアメリカとは70年ほど前、死闘と呼ぶよりほかない戦いを3年半以上にわたり繰り広げたのです。その後、日本は敗戦しました。そしてアメリカの若い軍人たちが作った草案による憲法を自らのものとしました。
そのことに乱暴にも切り込もうとされているのでよ。
お祖父さま、大叔父さまであってもさすがに、あなたの身の上を案じてお諌めすることと思いますけど。
しかしながら、あなたご自身のピンチである以上に、あなたがハンドリングしようとしているこの「國家」が危殆に瀕していることは、誰の目にも明らかなのですよ。おそらくあなた以外の誰の目にも。
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