雪をのせてきれいになった富士山。源頼朝はどう見てた?

Kazannonekko452

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武士の世を開くことになる源頼朝は、平治の乱で父親たちと死別した後、平清盛によって静岡県伊豆地方の韮山(現在の伊豆の国市)に流罪となる。年齢は満13歳、今なら中1から中に進級する春の頃のことだった。

頼朝配流の地とされ、石碑や頼朝と政子の像も建てられている「蛭ヶ小島」。冬を迎えた田んぼの彼方に富士山がきれいに見晴らせる。それにしても、残念ながら電線や鉄塔がうるさい。
頼朝配流の地とされ、石碑や頼朝と政子の像も建てられている「蛭ヶ小島」。冬を迎えた田んぼの彼方に富士山がきれいに見晴らせる。それにしても、残念ながら電線や鉄塔がうるさい。
彫刻の近くにある蛭ヶ島茶屋では、おにぎりやうどん、そばなどの軽食も食べられる。地元のお母さんたちが作っているとのことで、美味しいと評判も上々。

彫刻の近くにある蛭ヶ島茶屋では、おにぎりやうどん、そばなどの軽食も食べられる。地元のお母さんたちが作っているとのことで、美味しいと評判も上々。

頼朝が配流された場所は韮山の蛭ヶ小島(ひるがこじま。蛭ヶ島とも)とされるが、それがどこなのか、実はまったくわかっていない。現在、たまに観光バスがやってきたりする場所は、江戸時代の終わりごろに建てられた石碑を中心に、彫刻や緑地、駐車場、茶店などが整備されてたところ。江戸時代の郷土史家たちが、たぶんこの辺りだろうと考えて石碑を建立したということで、とくに証拠や伝承があったわけではない。それに、今となってはその場所が蛭ヶ小島だったとは考えにくい理由の方が理にかなっていたりする。

◆考えにくい理由、その1
この近辺の平野は近くを流れる狩野川という一級河川の氾濫原で、ひどい年には年に数回も洪水に見舞われる場所だった。古くからの集落は、東側か西側の山裾の高台に集中しており、平地に点在する農家ではほんの数十年前まで、2階の天井に船を吊るして洪水に備えていたという(2階の天井ですよ!)。いくら流人の頼朝とはいえ、洪水の危険がある場所に居所を設けることには無理がある。

◆考えにくい理由、その2
頼朝は本来なら、平治の乱で死罪となるところを死一等を減ぜられて流罪となったことから、時の権力側は頼朝に対する警戒心を抱いていたはず。平氏一族の流れをくむ北条氏や、平家に仕える伊東氏といった豪族が力を持っていた場所が配流の地に選ばれたこと自体、配下の伊豆の豪族たちに頼朝の監視が命じられていた可能性を示している。現に、頼朝は21歳の頃には伊豆東岸の伊東祐親の屋敷に滞在し、祐親の三女、八重姫との間に男児をなしている。流されても腐っても源氏の嫡男であることに違いはないのだから、氾濫原の陋屋などではなく、有力豪族である伊東氏や北条氏の屋敷に暮らしていた(監視という名目も含めて)と考えた方が自然だろう。「蛭ヶ小島」という地名は、蛭がうようよいる小島に押し込めていると中央に弁明するための、つくられた地名かもしれない。

旗揚げして最初に攻めた山木屋敷からの富士山は絶景

頼朝の伊豆での配流生活は20年に及んだ。北条時政の長女、政子とつき合うようになった2年後、33歳の時に平家に対して旗揚げを挙行。最初に狙った相手は、伊豆国目代の平(山木)兼隆だった。頼朝の旗揚げは成功。細かい話は省略するが、兼隆はかつて政子を妻にしようとしたことがあるとされる人物で、その住まいは韮山の平野の東側の山の際、山木と呼ばれる集落にあった。

山木あたりからの富士山。手前の愛鷹山と重なるような、のびやかな山裾が美しい。
山木あたりからの富士山。手前の愛鷹山と重なるような、のびやかな山裾が美しい。
古い街路を歩いていると、いきなり目の前に富士山。山木集落の路地から眺める姿も味わいがある。電柱がなければもっといいのだが…

古い街路を歩いていると、いきなり目の前に富士山。山木集落の路地から眺める姿も味わいがある。電柱がなければもっといいのだが…

この山木という集落からの富士山は、息をのむほど美しい。伊豆方面から富士山の方向を仰ぎ見ると、手前に愛鷹山という古い火山が重なってくる。三島市辺りまで近づくと、愛鷹山が屏風のように立ちはだかって富士山が低くなる。さらに愛鷹山に接近すると、沼津の浜辺には富士の山頂が完全に愛鷹山の陰になってしまう所もあるほどだ。

富士山は南東方向から見た姿が南西方向から見るよりも、横幅が狭いのをご存じだろうか。南東から眺めることになる伊豆の富士山は、他の角度から見るより傾斜が切り立って見える。さらに山から40kmほど距離がある上、愛鷹山を左にオフセットした場所から眺めることになるので、富士山はひときわすっきりと立ち上がった姿を見せる。山裾の伸びやかさもすばらしい。しかも、頼朝の時代には宝永火口もなかったから、富士山の眺望としては随一の場所だったのではないかと思えるほどだ。

平家政権の手先として伊豆を支配していた平兼隆は、富士が一番きれいな場所に居を構えていたのである。

平兼隆の屋敷があったとされる香山寺

伊豆の国市韮山山木 【電車】JR三島駅から伊豆箱根鉄道駿豆線「韮山駅」下車、徒歩約30分

では北条氏の屋敷はどうだったか

大昔、伊豆半島は太平洋のはるか南の島だった。フィリピン海プレートにのって日本列島に衝突し、今ある半島の形になったのだが、伊豆半島(北部)は東と西に火山があって真ん中部分に平地があるという構造になっている。

東の火山は富士山のように、何度も噴火を繰り返す成層火山だったが、海の浸食によって東側半分以上が消えている。熱海や伊東といった伊豆半島の東海岸から西に向かって山越えすると、東斜面は傾斜がめちゃくちゃ急なのに、分水嶺を越えて西側に入るとなだらかになることに気づく人も多いだろう。東は崩壊によって形作られたのに対して、西は成層火山時代の山裾の地形が残っているから傾斜が緩やかなのだという。

それに対して伊豆半島の西側の山地には、単発とか数回程度の噴火で形作られた火山が点在するのだそうだ。いかにも火山といった風貌の山もあれば、そうでないものもあるが、比較的小さな山がぽこぽこ地面からせり出している印象だ。

平兼隆の屋敷があった山木の集落は、のびやかな東の山地に続く斜面。それに対して、北条氏の屋敷があったのは半島の西側、小さな火山の残骸が並ぶ凸凹の多い地形の場所だった。

北条氏の菩提寺のひとつでもある成福寺からの富士山。お寺の墓地の先の一段下がった辺りまでは、洪水時に浸水するとされるが、寺がある周辺はぎりぎり浸水しない場所と言われてきた。
北条氏の菩提寺のひとつでもある成福寺からの富士山。お寺の墓地の先の一段下がった辺りまでは、洪水時に浸水するとされるが、寺がある周辺はぎりぎり浸水しない場所と言われてきた。

北条氏の屋敷跡は旧韮山町のその名もずばり北条という地区にあるが、ずっと昔からこの地に生きてきた豪族ではなく、熱海方面から分家としてやってきた一族らしい。洪水の影響の少ない山沿いのエリアに住むべき場所がなかったからか、北条氏は氾濫原のすぐ近くに屋敷を構える。氾濫原に隣接してはいるものの、狩野川の流れに立ちふさがるようにそびえる(といっても標高100mほどだが)山の川下側に居住地を設けたのだ。この山の名は「守山」という。その名が示す通り、北条の里を水害から守る山という意味だろう。

北条の里だった場所から富士山を眺めると、前景に小さな山が入ってくる。しかも、ほんの100メートルも移動するだけで、前景の山と富士山の位置関係が変わってくる。景色には人それぞれ、好き好きがあるだろうが、山木屋敷からの富士のような伸びやかさはなく、ややせわしない印象がある。

北条政子の「産湯の井戸」の前から見た富士山。手前で富士山を遮っているのは標高200mほどの大嵐山。
北条政子の「産湯の井戸」の前から見た富士山。手前で富士山を遮っているのは標高200mほどの大嵐山。
場所によっては富士山がすっぽり隠れてしまう場所もある。

場所によっては富士山がすっぽり隠れてしまう場所もある。

やはり遅れてやってきた一族だから、一等地というワケにはいかなかったのかとも思ってしまう。しかし、北条家の人々にとってはこの風景のこの土地こそが故郷そのものだったようで、鎌倉に幕府ができた後も伊豆に寺を建立したり、屋敷を広げたりしていたらしい。奥州合戦に先立って願成就院が造られたのもこの場所だった。2代執権義時が奥さんと並んで眠る墓があるのも伊豆の国市である。

時は流れて、新田義貞らによって鎌倉の北条得宗家が滅ぼされた後、残された女性や子孫達が菩提を弔う場所として選んで移り住んだのも、韮山の北条の里だった。

北条家の屋敷跡(政子の井戸)

伊豆の国市寺家 【電車】JR三島駅から伊豆箱根鉄道駿豆線「韮山駅」下車、徒歩約10分

富士山が世界文化遺産に登録されるとき、三保の松原が遠すぎるとして、除外が検討されたことがあったが、富士山頂(剣ヶ峰)からの直線距離で比べると、三保の松原は約43km。韮山の山木屋敷跡は約40kmでちょっとだけ富士山に近い。封建時代の武士たちがどんな思いで眺めていたか、想像を膨らませる場所として、韮山あたりも富士山の名所になればいいのにな。

●TEXT+PHOTO:井上良太

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