ヒロシマからの道「謝罪」

「ちちをかえせ ははをかえせ」と訴える峠三吉氏の詩の碑は原爆記念資料館の北東の木立の中にひっそりと建てられている。

詩の有名さからすると意外なほどにひっそりと。

わたくし事になるが、私は祖母を知らない。私の母方の祖母は、ヒロシマとナガサキに原爆が投下される約5カ月前、米軍のグラマン(艦載機)による機銃掃射を受けて亡くなった。母が女学校を受験する数日前のことだったという。

その日、日豊本線を走る列車が母の実家の前で急停車した。実家は線路から100メートルほどしか離れていない場所にあった。珍しく家の目の前に停まった列車に、まだようやく歩けるようになったばかりだった私の叔父が家を飛び出し、列車に近づこうとした。

列車が臨時停車したのは艦載機の空襲を受けたからだった。小さなこどもが飛び出してきたのを見て、艦載機は銃撃の照準を列車から叔父に移した。

祖母は叔父を、つまり我が子を守ろうと盾になって銃弾を腰に受け、一晩苦しんだ後に死んでいった。人前で泣く事などほとんどなかった母は、それから何日も泣き続けたという。

その話を初めて聞いたとき、涙が止まらなくてぼろぼろ泣いた。そして言いようのない悔しさがわき出した。私が祖母を知らないのはそういうわけだったのかと、憎しみに近い感情もあった。

しかし母はその話をした後に、こう付け加えた。

「お母さんが亡くなったのは悲しいことだったけれど、だからといってアメリカを恨んではいないのよ」

その言葉を聞いてまた泣いた。どうして涙が止まらないのか、何が悲しいのか、何が悔しいのかわからなかったけれど、言葉にならないものがそのときの涙とともに今も私の中にある。

弾丸が貫通していればもっと楽だったのにと医者は話したそうだ。祖母は苦しみの中で息を引き取った。小さな、まだようやく歩けるようになったばかりの子を残して。三番目の子だった母でさえ、ようやく高等小学校を卒業するくらいの年齢だったのに、祖母は五人の子を残して死んでいった。

私は祖母を知らない。

それは、孫である私を祖母が知らないということでもある。

そして母はアメリカを恨んではないという。本当に会わせたかったけどねと。

共同通信のアンケートでは、オバマ大統領がヒロシマを訪れるに際して、謝罪は必要ないという人が8割近かったという。私はそのアンケート結果が漠然とだが理解できるような気がする。

祖母は艦載機の機銃掃射で亡くなった。後に調べたところでは、祖母を殺したグラマンは米軍の沖縄上陸に先立って、九州地方の航空基地を攻撃した帰り道での「ついで」での銃撃だったものと考えて間違いなさそうだ。

祖父は泣き続ける母の肩を抱いて言った。

「シゲ子、泣かないでくれ。父さんがいるじゃないか」

母はいう。恨んでなんかいないのよ。でもその言葉の背景には、たくさんの、たくさんの、簡単には言葉にならない思いがある。

「父さんがいるじゃないか」と肩を抱いた祖父の気持ちはどんなものだったか。その頃の祖父と同年代になり、そのことを思うとやはり涙が止まらなくなる。

共同通信のアンケートでは、謝罪は必要ないという人が8割近かったという。謝罪を求めるという行為ではなく、流されたあまりにたくさんの涙を受け止めることから始めたい。

「ちちをかえせ ははをかえせ」という切実な叫びの背景に、生き残ったひとの悲しみを抱きとめる人間の姿が見えるような気がしてならない。言葉としての謝罪がいるかいらないかなどということとはまるっきり別の次元のものが。

ヒロシマからの道は憎しみや相手に謝罪を求める気持ちとは違うところへ続いている。私はそう信じている。