さらに歩いて、メリケン波止場の「神戸港震災メモリアルパーク」へ行く。
予定していた新長田へはたどり着けなかったが、たくさん揺さぶられる2日目だった。
新長田へ。喫茶店を訪ねる旅
2日間で気分はまるでジェットコースター。アップ&ダウンを繰り返していた。3日目は早朝から歩いて新長田へ向かう。途中、新開地近くの旧・三菱銀行前を通りかかる。この銀行は震災当日、パンケーククラッシュと呼ばれる、途中階が潰れるような崩壊をして、全国的に有名になったところ。21年前、西宮駅で輪行バッグから自転車を取り出して神戸の町を走った時、ここまでは来て写真を撮った場所。
周辺の瓦礫がなくなって道が広がっていることや、ビル自体が階数を減らして再建されたせいもあるのか、記憶と現実が一致しない不思議な感覚だった。
「銀行さんは撤去や再建が早かったからね。大切なお金を扱うからというより、被害自体をなかったことにしたかったやないかなあ、信用とかいろいろあるでしょ」
震災の翌年かその次の年、聞いた話を思い出した。
そこからほんのお散歩程度の距離を歩くと長田区だ。ただし、目的地は新長田駅周辺だったから、道を南に折れてまた西に折れてとジグザグに進んでいく。途中、ケミカルシューズの工場(こうば)が残る地域も通った。古い神社や昭和の香りのする住宅や路地も残っていたくらいだから震災の影響はそれほど大きくなかったのかもしれない。しかし、なぜか工場はどこも震災後に立て替えられた建物だった。どの工場にも、壁や窓に従業員募集の張り紙が張り出されていた。
ケミカルシューズというのは、オール革靴以外の一般的な靴のすべてを指す呼び名で、アッパーが革でも靴底がゴムや合成樹脂というものも含め、スポーツシューズや通勤靴、合皮の革靴まで含んでそう呼ばれているということを今回の神戸旅行で知った。その上、神戸にはオール革靴のみを扱うお店も少なくないということも。
大阪の「食い倒れ」は有名だが、京都は「着倒れ」、そして神戸は「履き倒れ」というのだそうだ。ノーシューズ・ノーライフ。ファッションの都、神戸にあって履物は極めて重要な位置を占めていた。その工場が神戸市西部の長田区に集中していたというわけだ。
化学繊維や樹脂が火に弱いのは言うまでもない。だからこそ、阪神淡路大震災での火災被害が甚大だったという解説もいろいろな場所で耳にした。
さて、そろそろ新長田駅も近づいてきた。特徴的な新開発ビルの姿も視界からはみ出すほどに近づく。しかし、それでも町の賑わいは感じられない。このあたりは三宮や元町とはまったく違う。震災前には神戸の西の新都心として再開発する計画もあったという、賑わいの中心地というべき土地柄だったのに。
商店街に入っての印象は3カ月前と大きく変わりなかった。駅前周辺の複合ビルには全国ブランドの商店が入居している。駅に面したいくつかの商業ビルの先、具体的にいうと、地元商店が入っている再開発エリアのうち新長田駅に近い「一番街」と呼ばれるエリアでは、三宮や元町の20分の1程度ではあるものの町に活気や賑わいが感じられる。
しかし、国道を渡って「大正筋」に入るとひと気がどんどん減っていく。シャターをおろした店舗も多い。「都合により休業」なんて張り紙が出されている場所もある。さらに進んで大正筋に交差する「六間道」まで行くと、シャッターが下りている店と開いてる店の割合が8.5対1.5くらいになる。
ほんの3カ月前に訪れていたものの、この現実には悄然とならざるを得なかった。神戸で復興を遂げているのは三宮や元町のような中心商業エリアだけなのではないかと。
寂れに寂れた雰囲気の商店街で店を開けていた喫茶店に入った。目的はもちろん、東北の被災地にコーヒーのサービスに出掛けている人たちの消息を尋ねること。
10時過ぎの店内にお客さんはいなかった。震災当時どころか高度成長期の町の喫茶店の成れの果てといった雰囲気だった。別に悪い印象ということではない。年配のマスターとママさんがいらっしゃいと迎えてくれる。メニューも豊富だし、しかも値段は20年前の水準。そして、注文をとって、注文の品を出すと、あとは夫婦でテレビのワイドショーに見入っているっていう感じ。70年代のATG映画の世界がそのまま年をとったような空間。
ワイドショーの感想をぶつけ合うご夫婦の会話に割り込ませてもらって、少しおしゃべりはしたものの、「どこからおいでたの?」くらいなもんで、それほど盛り上がるでもなく……。
それでも震災の話を切り出すと、特別なスイッチが入ったような感じでお二人が話しはじめた。
「うちはお店をやっているから、建物に時々は手を入れていたんです。それが良かったんでしょうね。地震で倒壊するということはなかった。でも同じ筋でもひどく傾いてしまったところもありましたよ。とくに酷かったのは1本北側の通りです。その辺までは火災でもやられてしまいましたしね」
「震災の日は朝の5時過ぎから店を開けていたから、お客さんもいたし大変だったんです。私らの店も、所どころ痛んでいるんですよ。ほら、その壁と柱の間の隙間とか、震災でできたものです。でも倒れることもなく、その後すぐに営業を再開することも出来ました」
「最初の数日は避難所のお世話にもなったけど、お店は大丈夫だったから、水道が開通してからは開くことにしたんです。そしたらありがたがってもらえてね。避難所っていってもプライバシーがないから、おしゃべりするのにも気兼ねせなあかんでしょ。ここにくれば、昔と同じようにおしゃべりできる。居場所っていうんですか、喫茶店って大切な場所だったんだと今にして思います」
震災以前と変わらない場所としての「意義」が喫茶店にはあったということらしい。その意義は震災から21年が経過した今も続いているのか、現在でも早朝から店を開けているとか。お客さんはほとんどが常連さんみたいだ。
――と、そんなことを考える間もないくらい、お二人、とくにママさんの話は止まらない。どこの家の何々さんがどうされたとか、火災に遭わなかったお店や本町筋みたいな商店街が、震災直後の人々の生活や気持ちをいかに支えていたかとか。いつまでもいつまでも話は続いた。
しかし、3月11日の東北でコーヒーのおふるまいをしてくれた人たちに関しては、
「それは聞かんな。う〜ん、ごめんね、分かりまへんのや」
しかし、その代わりに、「遠いところからわざわざ来てくれてありがとうね。また来ることがあったらぜひ寄って下さいね」と優しい言葉をかけてくれるのだった。
次に入ったお店もその次に入った店も同様だった。お店に立っているのはかなり年配の方。そして震災当日は、すでに店を開けていたか、開ける準備中だったかという状況。阪神地方では、出勤前に喫茶店でモーニングサービスを食してから電車で会社に向かうというスタイルが、1995年当時でも一般的だったらしい。あの日の神戸の町には昭和の時間が流れていた、そんなふうに考えてみると町の様子が具体的に思い描けるような気がした。
入ったお店に共通するもうひとつは、「うちはギリギリ大丈夫だったのよ」という話だ。阪神淡路大震災の被害状況はきわめて局地的で、粉々になって崩壊している家の隣がほとんど無傷だったりもした。建物そのものの強度もあるだろうが、それ以上に、場所によって揺れの大きさにかなりの偏りがあったと分析されている。
東京など他の地域では個人営業の喫茶店はほとんど見られなくなったが、神戸に比較的たくさんの喫茶店があるのは、モーニングサービスなど喫茶店文化が根付いていたこと、そして震災を乗り越えた店主たちが廃業することなく、たとえ細々であっても仕事を続けてきたことが大きいということらしい。
どの店に入っても、震災を乗り越えたご高齢の経営者と震災を免れた建物という組み合わせがほとんどだった。
たまたま震災の被害が少なくて生き残った喫茶店は、店主が元気でいる限り今日でも営業を続けているということだろうか。昭和の時間のその流れの中で。ちなみに今年2016年は、昭和でいうと「昭和91年」だ。