新長田では喫茶店巡りを続けた。震災の話になるとスイッチが入ったようになって、21年前のことを話してくれるという状況はどの店も同じだった。
「火事はね、店の前のこの通りで止まったの。恐かったのよ、火の手が早くてね。商店街の中の電線を火がサーッと走って、どんどん燃え広がっていった」
「うちは新長田の駅北とここと2軒で喫茶店をやってたんだけど、どちらも6時開店。私はこっちの店の準備、夫は駅北の店で準備中に地震が来た。こっちは大丈夫だったけど、夫の方は店が倒壊したところに火の手が襲ってきて、近所の人にやっとのことで引っ張り出された。ただ足に大怪我していて、病院に行ってもなかなか手当をしてもらえなかった」
21年――。時間が流れても記憶が消えることはない。ちょっとしたきっかけ、たとえば震災のことを質問されるとかすれば、話が止まらなくなる。
喫茶店を訪ねて話を聞いてまわるその度に、「東北と同じだ」と感じていた。阪神淡路の震災の方が前に起きたことなのだから、実に逆立ちした感想なのではあるが。
その日も喫茶店を巡り、震災の話を聞き、東北のことを尋ね、「いやあ分かりまへんな」との答えをいただき、さらに「ホントは私たちも駆けつけたいのだけど、いっぱいいっぱいですから」とか、「行けなくて申し訳ないと思っているんですよ。3月11日に長田からコーヒーをね、そうか、そんな人がいるんですか。ありがたいなあ」といった声も聞かせてもらった。
そんな4日目の昼下がり、新長田の駅北で入った喫茶店、そこはまだ若い女性がやっている店だったのだが、石巻のコーヒーの話をすると、「聞いたことあるわ」と返事が返ってきた。ぱっと光が灯った感じだった。居合わせたお客さんも、「そうそう、たしかね」と情報を下さった。
「たしかね、シューズプラザの3階だかにいる人か、それか町づくり会社の誰だかが関わっているって聞いたことがあるわよ」
シューズプラザは長田の町で造られた靴の販売を行なうだけでなく、全国のバイヤーとメーカーをつなぐビジネスマッチング機能も併せ持つ施設。さらにテナントとしてNPO団体も入居している。情報をもらった喫茶店のすぐ近くだったので駆け足で訪ねてみたのだが、オフィスが入居しているフロアはすべて普通の事務所で、すべてドアが閉ざされている。
そのうちの1軒にノックしてドアを開けて事情を話す。
「いやあ、そんな話は聞いたことがないですなあ」
それでも、対応してくれた男性はオフィスから出てきて、「ご覧の通りこのフロアは靴のバイヤーさんとかデザイナーさんとかの事務所ばかりなんです。上の階に入っているNPOさんなら知ってるかも」と、NPOのオフィスまで案内してくれて、そこでもやはり「ここではそんな話は聞きませんね」ということになり、一緒に頭を捻って、「やはり、まちづくり会社で尋ねてみられるのがいいかもしれませんね」という話になった。
さらに1階まで見送ってくれ、「お力になれなくてすんません。お気をつけて」とまで言って下さる。神戸の人のあたたかさに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
駅北からガードをくぐって、一番街、大正筋と続くアーケード街に戻りまちづくり会社を訪ねる。再開発ビルの中にあるオフィスのインターフォンで要件を説明すると、やがて打ち合わせブースに通されて、担当者を呼びますからと伝えられた。
しばらくしてブースにやってきた「担当者」とは、新長田まちづくり会社の宍田社長だった。
宍田社長はこちらの説明を聞いた後、何度もうなづきながらこう言った。
「本当に、そういう方が長田にいて下さるのはありがたいことです。私自身も駆けつけたいという気持ちは強いですけど、地元がまだこんな状態ですからね、行きたくても行けないというのが正直なところなんですよ」
そして続けて、
「可能性があるのは2人ですね」と、石巻や東北でコーヒーなどのおふるまいをしているグループの候補を2つあげてくれた。それぞれの人たちがどんな活動をしているのかも詳しく教えてくれた。
「ただ、私も知らないんです。間違いなくそのお二方のどちらかだとは思いますが、実際に3月11日にコーヒーを届けに東北に行ったのが誰なのかはね」
その言葉を聞いて悟った。そもそも自分は、3月11日にあたたかいコーヒーを東北まで届けてくれた人たちを見つけ出せたとして、その人たちに何を話すつもりだったのか。
ありがとうございます――?
考えてみれば、それはおかしな話だ。21年を過ぎた神戸、そして5年を過ぎた東北。そんな時期に神戸を訪ねて私がその人たちに言いたかったのは、ごく個人的な「ごめんなさい」だったのではないか。21年前、ずっと続けなければと思い、周囲の人たちにも宣言したにもかかわらず、3年目の後、「神戸の件はもうそろそろにしようか」と編集部の人に告げられたのを受け入れて、その後は個人としてすら訪ねようとしてこなかった。そのことを、神戸の誰かに許してもらいたかっただけなのではないか。
名も告げず、尋ねても答えてはくれず、それでも東北を訪ね続ける温かい神戸のコーヒーの人たちに、どのツラさげて会えるというのか。
いちおう、照れ隠しのような気持ちで、「神戸に来れば、きっと東北を訪ねてきた喫茶店経営者の有志みたいな方に出会えると思ったんですけどね」と言うと、
「それはありえないですね。あなたも町の喫茶店を回られてお分かりでしょう」
そうですね、としか答えられなかった。宍田さんが教えてくれたお二方は、どちらも喫茶店関係ではなく、公に近いところでボランティア的な活動している人たちだった。たとえ訪ねていっても「分かりませんな」とシラを切られることも予想できた。いや、そんなことより何よりも、宍田さんが最初に言った「行きたくても行けないというのが正直なところなんですよ」という言葉の方がヅシンときた。
温かいコーヒーで何かを伝えてくれたのは誰、ではなく、おそらくすべての人たち。それが答えだった。阪神淡路大震災で酷い目にあった人たちの多くが、いままさに同じ状況に置かれている東北の人たちに心を寄せている。
しばらく沈黙が続いた後、「せっかくお会いしたんですから、何かもう少し話しますか」と宍田さんは言ってくれた。
自分はその言葉に、まるで取材記者みたいに乗っかって切り返した。
「新長田の復興はうまく行かなかったのではないかという声が多く聞かれますが」と。個人としての自分は意気消沈しているのに、どうしてこんな言葉が口に出来るのか不思議だった。
でも宍田さんもそう問われるのを待っていたのかもしれない。あの報道には参りましたよと頭をかくような仕草を見せながら、新長田の現状について話してくれた。
マスコミが新長田の復興事業は失敗だといっせいに叩いたのには困り果てた。とくにNHKの報道が痛かった。
新長田の再開発は決して失敗はしていない。
シャッターを下ろしているお店はあっても、空き店舗ではない。それぞれの事情があって開けていないだけ。
その一方で、従来のやり方では難しいと肚を括って、専門店としての強みを出すことに真剣に取り組んでいる商店も少なくない。
商店主の年齢の問題ではなく、この土地ならではの新しい商売のやり方にチャレンジしようという動きは確かに高まっている。
三宮や元町のようなスタイルでやっていこうとしても難しい。新長田には新長田だからこそのやり方がある。
下町芸術祭もまちを元気づけるきっかけになっている。鉄人28号ももちろんそうだ。あのモニュメントが出来たことで、広場を会場としたイベントがたくさん行なわれるようになった。
復興の過程では新らたな課題が次々と明らかになっていく。ひとつステップを乗越えたと思えば、そこで新たな課題がいくつも発生する。それを解決していくことでまたもうひとつステップを上れる。するとまた新たな課題が出て来る。復興とはそういうものではないか。
久しぶりに取材者のような口ぶりで話を伺いながら思ったこと。それは21年という時間だ。
三宮や元町辺りの賑わいを外から眺めている目線では、神戸の復興はとうの昔に成し遂げられたかのように思えていた。しかし現実はそうではない。神戸の町の中心地とは異なる事情はあるものの、21年経ってた今もまだ、新長田は復興の途上にある。それどころか、何を指して復興と呼べるのかさえ明確ではない状況なのかもしれない。
「本当なら東北に駆けつけたいとが、地元がまだこんな状態ですから、行きたくても行けない」と、まちづくり会社の社長さんが言うのが21年後の新長田の実際なのだ。
人にはそれぞれ意見や考えがある。だから何かひとつのことを評価するにしても、賛否はもちろん多種多様な意見が噴出する。ましてや震災復興を経験した人などいなかったわけだ。問題なくスムーズに事が運ぶわけがない。
さらに言うなら、復興などというものは、なにか「これが復興です」というような目に見える何かがあって、それがある日まるまると十全な形で、ポンと出現するようなものではない。
宍田さんの言うように、ステップをひとつのぼればそこに新たな課題が現れて、その解決に力を注ぐうちに、別の問題がまた現れる。その繰り返しの中で少しずつ進めていくのが復興ということがらの実体なのかもしれない。課題が現れるたびにマスコミに叩かれる。叩かれてもやっていくしかない。長年ずっと町に関わってやってきた宍田さんの人生は、柔和な表情からは想像できないくらい厳しいものだったのかもしれない。
21年。もう一度、その時間を思う。
もう少し自分の中で問題を整理した上で、改めて宍田さんには会いにいきたいと思う。しかし、問題を整理するということ自体が、とても困難なこと。復興とは答えのない道なのかもしれない。