3月11日、〈東北復興支援社内イベント2016〉を実施しました ~前編~

東日本大震災の発生から5年となる先日3月11日、犠牲になられた方々への追悼と震災の風化防止、次に来る災害への備えを目的として、勤務先の会社で社員全員参加のもと「東北復興支援社内イベント」を行いました。今日はその内容を共有させていただきます。

東北復興支援社内イベントの概要

復興支援イベントは3月11日の午前9時半から午後4時半まで実施されました。大きく二つに分かれており、一部は東日本大震災の追悼、風化防止、二部は次に来る災害に対しての備えを目的としています。

イベントの主な内容は次の通りです。

【一部】
〈復興支援ツアー参加者による現地リポート〉
観光による東北の復興支援、及び防災について学ぶことを目的に昨年11月下旬から今年3月上旬にかけて有志社員6名がそれぞれ東北の被災した地域を訪れてきました。その際に見て感じたことを発表して社員全員で経験を共有しました。

〈被災された方々の声を集めた新聞記事の朗読〉
東日本大震災で被災された方々の声をもとに書かれた河北新報社の連載記事「<もう一度会いたい>」を社員全員で順番に朗読しました。
※連載記事「<もう一度会いたい>」は下記リンク先をご参照ください。

【二部】
〈防災についてグループディスカッション(※テーマ:備蓄品について)〉

5人ずつのグループに分かれて、会社に備えてある非常食を実食しながら、備蓄品についてのディスカッションを行いました。

ディスカッションでは各自備えている備蓄品を発表し、意見交換等を行います。その後、各チームそれぞれ約3分でオススメの備蓄品の発表です。

【付帯企画:キャンドルの点灯】
3月11日の帰宅後、事前に作っていた手作りキャンドルを各社員が自宅で灯し、震災で亡くなられた方々の追悼を行いました。

復興支援ツアー参加者による現地リポート

発表者は復興支援ツアーに行ってきた6名です。各自の話の主な内容をご紹介します。

【A.Iさん】
A.Iさんは、宮城県の南三陸町立戸倉小学校と石巻市立大川小学校について、随時質問を出しながら話をしました。

例えば、「大川小学校は河口からどれくらい離れていたのか?」

答えは、4~5キロもあったそうです。それにも関わらず74名の児童と教員が死亡・行方不明になっています。

戸倉小学校は海から300メートルしか離れていないのですが、それでも全員無事だったといいます。その違いは教師が機転をきかせて高台へ避難させたかどうかなどにあったといいます。

また、河口から4キロという距離について、地元の川を例にしてどれほど離れているかを問いかけて考えてもらうなど、聞き手とのコミュニケーションも大切にしながら発表していました。そんなA.Iさんが今回の復興支援ツアーで得たことは次のことでした。

1.新たに出来た街というのは、災害に対して無防備な可能性が高い。
(周辺地域の過去の災害や言い伝えを学び、危機感を持って防災について考える。)

2.日頃からの地域の人達とのつながりが大切。
(それにより震災時に役割が自然とでき、一体となって行動できる。)

3.防災マップで危険地域になっていないからといって安心してはいけない。
(この震災で、津波が北上川を49kmも上ったそう。)

4.周りの様子を見て動くのではなく、自分が必死になって逃げることで周りの人に危機感を伝える。

5.もう大丈夫ということはない。
(常に最悪の状況を考えて、生きるための行動をする。)

6.誰かを救おうと思っても、圧倒的な自然の脅威の中でそれは難しい。

引用元:A.Iさん発表資料

【M.Oさん】
M.Oさんはご家族と共に訪れた宮城県岩沼市にある「千年希望の丘」などについて発表しました。千年希望の丘は津波の力を減衰させるなどの目的に加え、津波の被害の大きさを後世に伝えていくためのメモリアルパークです。震災当時、この高台に避難した方々が助かったことから復興のシンボルとして整備するそうです。

M.Oさんはメモリアルパークの丘で、実際の津波の高さが分かるスマホアプリをダウンロードしてお子さんと共に確認し、その高さにびっくりしたといいます。

また東北の沿岸部を車で移動している際、津波浸水域を示す看板を目にして「ここまでは来ないだろうと思っていた場所にも津波が到達していた」ことに驚いたそうです。M.Oさんは今回の復興支援ツアーで次のことを感じたそうです。

・近所の方とのつながりが、災害発生後に重要になってくる
・津波から、より安全な場所へ逃げていくことが重要

【H.Sさん】
H.Sさんは、宮城県の南三陸町立戸倉小学校などを訪れたときのことを中心に発表しました。話によると戸倉小学校では当初、消防からお墨付きを得ていた校舎の屋上に避難する計画だったそうです。

しかし、一部の教師から屋上ではなく高台へ逃げたほうがいいという意見が出て、子供たちが実際に移動できることを確認した上で高台へ避難することを決めていたそうです。地震発生当日は一次避難場所としていた校庭への避難をカットして直接、高台へ逃げたそうです。

H.Sさんは、震災当時のことを教えてくれた語り部の方の声も紹介していました。それは次のものです。

「まだ震災は終わっていない。生活はむしろ悪化している。来てくれるだけでもありがたい」

多くの人の関心が少なくなってきていることにより、仮設住宅に住んでいる方たちの状況は改善よりもむしろ悪化しているのではないだろうか。東北を訪れることが地域全体の経済活性化に結びつくので、ぜひひとりでも多くの人に来てほしいとのことです。

その他にも雄勝地区で出会った女性から

・避難する場所は絶対に高台
・避難したら絶対に戻ってはダメ

という教訓を教わったといいます。

H.Sさんは今回の復興支援ツアーで得たことについて、リアスアーク美術館で見た「運悪く、運良く、偶然という考えを捨てなければ、命を守ることはできない」という言葉を紹介した後に、

「心の備え、物の備え、体の備え、知識の備えがあれば絶対に生き延びることができる。自分の命は自分で守る意識が大切だと思った」

と語っていました。

【I.Oさん】
I.Oさんは訪れた岩手県釜石市で語り部の方から聞いて学んだことを伝えてくれました。

語り部の方によると「津波は雪崩のようだった」そうです。

津波により大きな被害を受けた釜石の街ですが、家族などのことは考えずに各自がまず真っ先に高台へ避難する「津波てんでんこ」という昔からの教えを実践して多くの方が一命を取り留めています。

釜石の方たちの防災意識は高く、訓練でも走って避難するそうです。この意識の高さが多くの人が助かったことにつながった理由のひとつではないだろうかと思ったと話していました。

また、逃げるという行動が「それを見た周りの人たちへの避難喚起にもつながる」そうです。I.Oさんが復興支援ツアーで学んだことで一番伝えたいのは

「家族との信頼関係を構築しておく」

とのことです。家族が避難できていると信じ、決して家には戻らないようにすることが重要だと思ったそうです。

【R.Iさん】
R.Iさんはまず最初、震災から5年がたった3月11日の朝に東北の知り合いがSNSなどに投稿した話を紹介した後、岩手県陸前高田市の歴史や津波についての話をしてくれました。

話によると陸前高田では、東日本大震災以前の津波――明治の三陸津波など――で亡くなられた方は少なかったそうです。津波の高さが東日本大震災の時よりも小さかったことに加え、海沿いに立つ松林が押し寄せる波を減衰させたことにより、浸水域が5年前の津波よりもだいぶ海側であったことによるそうです。

以前、陸前高田市の津波避難所は高い場所にあったそうです。しかし、お年寄りが増えてきたことや足の不自由な人もいることから、過去の津波到達位置も考慮して、東日本大震災が発生する前に避難場所を新たに低い場所にも設けたそうです。

R.Iさんは陸前高田市の話の後、福島県いわき市久之浜地区の浜風商店街にある1軒の食堂について、参加者に問いかける形で話をしました。

この食堂は「持ち込みが可能」なのだそうです。例えばお客さんがコーラを注文すると、「向いにある駄菓子屋さんで買ってきて」と言われるそうです。参加者全員でこの問いかけに対する答えを考えました。

【K.Sさん】
K.Sさんは、津波を体験された方々が口をそろえるように、「高台へ『とにかく逃げる』ことが重要」。と言っていたことが強く印象に残っているそうです。発表では、そのうちの一人である宮城県石巻市で出会った男性に聞いた話をしていました。その男性は近くの高台へ避難して一命を取り留めたものの、近所の方の中には「まさかここまで津波は来ないだろう」と考えて逃げなかったために、命を落とされた方も少なくなかったそうです。津波の恐れがある場合はとにかく高台へ避難する大切さを改めて感じたといいます。