『君死にたまふことなかれ』の時代の空気

iRyota25

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5年生の国語の教材「水兵の母」の元となった「感心な母」が教科書に取り上げられた明治37年(1904年)、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」が発表されたことは前の記事に記しました。晶子の詩は、まるで当時から女性が、母親として反戦を訴えることが容易だったかのような印象を与えますが、「君死にたまふことなかれ」は当時の文壇に大論争を引き起こしたようです。

 【ぽたるページ】戦時中の五年生の国語「水兵の母」
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まずは晶子のこの詩をあらためてご紹介します。

君死にたまふことなかれ
  旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

   与謝野晶子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

山川登美子・増田雅子・與謝野晶子 恋衣 | 青空文庫

末っ子のあなたに両親は、人を殺せと教えましたか。人を殺して自分も死ぬ人になるようにと、あなたを24歳まで育てたのですか。堺の町の商人の旧家を継いでいるあなたにとって、旅順要塞が落ちようが落ちまいが関係ないではありませんか。そんなこと商人の家の掟には何も書かれていませんよ。天皇は戦場に出ることもなく、人が互いに血を流し合い、獣の道に死ね。死ぬことが人の誉れであるなんて。夫に先立たれたあなたの母は、その嘆きの中、痛ましくも息子まで召集されて、すっかり白髪が増えてしまいました。あなたの若き新妻は暖簾の陰に隠れて泣いています。この世にたった1人のあなたをおいて、いったい誰を頼りにすればいいのでしょう。

かろうじて、まだ「生きて帰れ」と言えた時代

何度読んでも言葉がストレートに胸に突き刺さります。「水兵の母」の教師向け教科書には、水兵の母の物語を「その純情、その気魄、往々男子を瞠若たらしめる(驚きに目を見開かせる)ものである」と評していますが、その言葉がそのまま当てはまるような晶子の詩です。

ところがこの詩が発表されるや、当時を代表する詩人で歌人で評論家、しかもそれまで晶子を高く評価してきた大月桂月(各地に詩碑や歌碑が残っています)が批判します。「家が大事なり、妻が大事なり、国は滅びてもよし、商人は戦うべきべき義務なしと言うは、あまりに大胆過ぎる言葉」、「草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまえる教育勅語、されは宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざなり」と、こっ酷い言葉で。

これに対して晶子も『ひらきぶみ』を発表して反論。

私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。

与謝野晶子 ひらきぶみ | 青空文庫

さらに『ひらきぶみ』は当時の町の様子も教えてくれます。

新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、

与謝野晶子 ひらきぶみ | 青空文庫

出征していく我が子の手を握り「無事で帰れよ、気をつけるんだぞ」と口々に言葉をかける光景が、新橋にも渋谷にも多数見られたというのです。まだ日露戦争のこの時代には、「無事で帰れと」ということが許される空気があったということでしょうか。

この部分に続く一文が『ひらきぶみ』の圧巻ともいうべき場所です。

私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

与謝野晶子 ひらきぶみ | 青空文庫

まことの心をまことのことばにすることが、私の仕事なのだと宣言するのです。

たゞ答へずに泣かんのみ――大塚楠緒子

論争は容易には収まりませんでした。晶子の挑発的な反論に対して、桂月はさらに語気を烈しくして批判します。論争は晶子vs桂月にとどまらず、当時の文学者たちを巻き込んでいきます。ついには与謝野鉄幹らが、社外者の立会のもと桂月と問答式の討論を実施するに至りました。

逸見久美著「新版 評伝与謝野寛晶子 明治篇」(2007年 八木書店)によると、討論会で鉄幹は桂月に次の詩をどう解すかと、大塚楠緒子の『お百度詣』を示したそうです。

その『お百度詣』が胸に響くのです。著者の大塚楠緒子(おおつかくすおこ/なおこ)は、夏目漱石に想いを寄せられたという伝説のある才色兼備の文学者でした。彼女の死にあたって漱石は「有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中」の句を詠んでいます。

お百度詣

 大塚楠緒子(おおつかくすおこ/なおこ)

ひとあし踏みて夫(つま)思ひ
ふたあし国を思へども
三足(みあし)ふたたび夫おもふ
女心に咎ありや

朝日に匂ふ日の本の
国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人もこの世に只ひとり

かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎ありや

お百度詣  大塚楠緒子(おおつかくすおこ/なおこ)

晶子を応援するために作れたという話も聞いたことがありますが、七五調で淡々と畳み掛けてくる楠緒子のこの詩は、字句の1つひとつが胸に打ち込まれるようにすら感じられます。そして、計算され尽くした構成美を持っています。

与謝野鉄幹からこの詩の是非を尋ねられた大月桂月も、この詩を高く評価したということです。戦地に赴いた大切な人の無事を祈りながら、表向きそう口にするのが難しくなっていた状況が認識されていたからこそ、この詩は当時の人の心を揺さぶったのです。

なかには純粋無比な「軍国の母」「軍国の妻」もいたのかもしれません。しかし、多くは「たゞ答へずに泣かんのみ」という心情に支配されていた。駅で見送る両親が「無事で帰れ」と告げるにしても、それは大声ではなかったことでしょう。

明治維新から37年を経た1904年の時代の空気は、おそらくすでに、心情の表明が躊躇されるまでになっていたのです。そもそも晶子が「まことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」と宣言したこと事態、世情に対する抵抗であり、言葉を弾圧する空気が濃くなっていたことの裏返し。晶子や楠緒子は稀有な存在であり、多くの人は心のなかでは彼女たちの言葉に喝采を送りながらも、表向きには「水兵の母」のような軍国婦人を演じるほかなかったのです。

そんな時代がやって来ませんように。

えっ、なに? そんなに小さな声じゃ聞こえないよ。

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