国民学校(小学校)五年生の後期の国語の教科書『初等科國語 六』から「水兵の母」という文章を紹介します。この教科書は昭和18年、太平洋戦争もたけなわの頃、日本中の11歳の少年少女が学んだものです(当時は全国一律の国定教科書でした)。72年後のいま、あなたはこの話をどう読まれるでしょう。何を思われるでしょうか。
文章の題材は日清戦争の頃に巡洋艦高千穂艦上であった実話とのことです。「小さな資料室」さんのテキストを引用させていただきます。
二 水兵の母
明治二十七八年戰役の時であつた。ある日、わが軍艦高千穗(たかちほ)の一水兵が、手紙を讀みながら泣いてゐた。ふと、通りかかつたある大尉がこれを見て、餘りにめめしいふるまひと思つて、
「こら、どうした。命が惜しくなつたか。妻子がこひしくなつたか。軍人
となつて、軍に出たのを男子の面目とも思はず、そのありさまは何事
だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝國の恥だぞ。」
と、ことばするどくしかつた。
水兵は驚いて立ちあがりしばらく大尉の顔を見つめてゐたが、
「それは餘りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本
男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」
といって、その手紙をさし出した。
大尉がそれを取つて見ると、次のやうなことが書いてあつた。
「聞けば、そなたは豊島(ほうたう)沖の海戰にも出でず、八月十日の威海衛
(ゐかいゑい)攻撃とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも
殘念に思ひ候。何のために軍には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に
報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしく
お世話なしくだされ、一人の子が、御國のため軍に出でしことなれば、
定めて不自由なることもあらん。何にてもゑんりよなくいへと、しんせ
つに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふが
ひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくるばかりにて候。八幡(は
ちまん)樣に日參致し候も、そなたが、あつぱれなるてがらを立て候やう
との心願に候。母も人間なれば、わが子にくしとはつゆ思ひ申さず。い
かばかりの思ひにて、この手紙をしたためしか、よくよくお察しくださ
れたく候。」
大尉は、これを讀んで思はず涙を落し、水兵の手をにぎつて、
「わたしが惡かつた。おかあさんの心は、感心のほかはない。おまへの殘
念がるのも、もつともだ。しかし、今の戰爭は昔と違つて、一人で進ん
で功を立てるやうなことはできない。將校も兵士も、皆一つになつて働
かなければならない。すべて上官の命令を守つて、自分の職務に精を出
すのが第一だ。おかあさんは、一命を捨てて君恩に報いよといつてゐら
れるが、まだその折に出あはないのだ。豊島沖の海戰に出なかつたこと
は、艦中一同殘念に思つてゐる。しかし、これも仕方がない。そのうち
に、はなばなしい戰爭もあるだらう。その時には、おたがひにめざまし
い働きをして、わが高千穗の名をあげよう。このわけをよくおかあさん
にいつてあげて、安心なさるやうにするがよい。」
といひ聞かせた。
水兵は、頭をさげて聞いてゐたが、やがて手をあげて敬禮し、につこりと笑つて立ち去つた。
日清戦争に題材をとったとは言え、まさしくこれは太平洋戦争の時代に帝国軍人の覚悟を学ばせる意図で書かれた文章でしょう。これが日本のことなのかと驚かされます。どこか近くのとある国の国営放送の勇ましいアナウンサーが目に浮かぶような不思議な感覚です。息子が戦争で活躍しないことを不甲斐なく思う母。その母の気持を思って艦上で涙を流す息子。これが戦争中に日本を覆っていた空気というものなのでしょうか。
教師用教科書には驚きの指導方法も
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーには、『初等科國語 六』の教師用の画像がアーカイブされています。指導用のこちらには、さらに端的に、小学児童(当時は少国民と呼ばれた)に何を教え込むべきかが記されていました。
二 水平の母
教材の趣旨
初等科国語一「子ども八百屋」、同四「萬寿姫」「母の日」等の教材は主として、子どもの母親に対する情愛を描き出し、それに感動させて来たのであるが、初等科国語五以降、母親の我が子に対する感情の種々相を教材とし、これまで培われてきた自動の母に対する乗艦を一層深めていくようになっている。
(中略)
日清戦争のさ中、高千穂艦上で起こった美談に取材した教材である。文は、大君の御楯として捧げた愛子を励ます母からの手紙を読みながら感涙する一水兵と、偶然その場に来合わせた士官とを描いていて、崇高な軍国の母の精神に深く感動させられるものがある。
この教材に現れる一水兵の母は、戦場に出た以上は、一命を捨てて、君の御恩に報ゆることこそをその子に諭す母親である。換言すれば、陛下の御ために愛子が死ぬることこそ、愛子を永遠に活かす道であると堅く信じて疑わない母である。そこに、皇国の母としての考え方の正しさとけだかさがある。
これは、明治二十七八年戦役にさかのぼる事実であるが、真に君国を思い、愛子を念ふ皇国の母の精神は、大東亜戦争完遂の今日においても、依然として変わることなく、いかなる日本の母の胸臆にも脈々として流れ通うものである。
「崇高な軍国の母」「一命を捨てて、君の御恩に報ゆることこそをその子に諭す母親」「陛下の御ために愛子が死ぬることこそ、愛子を永遠に活かす道であると堅く信じて疑わない母」。それが「皇国の母としての考え方の正しさとけだかさ」と言い切る指導用の教科書。さらに、このような母の思いは「いかなる日本の母の胸臆にも脈々として流れ通う」というのです。
教師用の教科書にはしっかりと「死ぬることこそ永遠に活かす道」と記されています。多くの教師が教壇の上で「皇国の母の正しさとけだかさ」、そして「一命を捨てて、君の御恩に報ゆること」が皇民の務めであると力説したのは間違いないでしょう。
さらに、教師用の教科書には、感情を込めて読むことが重要だと指導方法も示されていて、空恐ろしい気持ちにさせられてしまします。
文意の理会に即し、劇的に話すことを練習し、読みを深めて軍国の母の燃えるような精神に感動するように指導する。
軍国教育とは男子のみならず、女子にも国家のために命を捧げる精神を教え込むものなのです。感動するように指導、つまり感情まで押し付けられるものなのです。成績が良くて語り方の上手な少女が、オカッパ頭を少し揺らしながら、抑揚をつけて水兵の母からの手紙を音読している様子を想像すると、戦慄せずにはいられません。洗脳という言葉が思い浮かびます。
こうして11歳の子供たちは、まるでスポンジが水を吸うように、軍国精神を自分の中に取り込んでいったのです。
もうひとつ注目したいのは、この教科書で学んだ小学5年生の母たちのことです。仮に母親の年齢が31歳だとすると、彼女が生まれたのは1912年、大正元年。15年間と短い大正時代ですが、電灯やラジオが普及し、円タク(タクシー)が走る町にはレストランやカフェが軒を連ね、大正デモクラシーが普及していった時代でした。その比較的自由な空気を吸って成長した彼女たちが、自分の子供たちが学校から家に持ち込んでくる軍国の空気をどのように受け止めたのでしょうか。気になります。
子供たちの母もこの教材を学んでいた
ところが、教師用の教科書の次の課「三 姿なき入城」の解説に、「水兵の母」について次の記載があるのです。
前課「水兵の母」は、日清戦役に際して現れた軍国の母の物語であり、国定教科書において長い歴史を持つ教材である。爾来これが幾百千万の児童を感激せしめ、さらに数多き軍国の母を生むべき契機となっている。
大東亜戦争下、烈々の至情を以ってわが子を励まし、これを大君に捧げて無常の光栄とする母の美談は、ほとんど枚挙にいとまがなく、全国民をして感激措く能わざらしめるものがある。
その純情、その気魄、往々男子を瞠若たらしめる(驚きに目を見開かせる)ものであるが、しかもその胸臆に湛えるものは母としての情であり、わが愛子を永遠に生かそうとする皇国母性の慈愛であって、そこに母の強さも顕現するのである。
この物語は、太平洋戦争が始まって教科書に載せられたものではなく、幾百千万の児童を感激させ、数々の軍国の母を生む契機となったものだと記されているのです。調べてみると「水兵の母」の元になった「感心な母」という物語は、明治の頃から教科書に採用されていました。近代デジタルライブラリーには、明治37年(1904年、日露戦争が始まった年)の「高等小学読本字解」(教科書に出てくる漢字の児童向け解説書)や、同年に発行された「国語読方教法及教授案. 高等小學科第1學年 前期」という資料がアーカイブされています。
教師用の指導書「国語読方教法及教授案」の内容は想像を絶するものです。
口唱して次の語を書取らしむ。
君のために命を惜しまぬは日本男子の常なり。
汝らこの手紙を見てこの母の心得如何と思うか。
日本男子の母はかかる心得なればこそ、日本軍人は強きこと世界無比なり、文字は拙くとも手紙は意を尽くさずとも、その心は実に立派ならずや。
内容を印象せしむるため左の質問をなす。
近隣の人は如何に親切を尽くせしか
この水兵は兄弟がありしか
母は来訪者に向かいなぜ恥ずかしく思いしか。
しかり男子たるものが、母から「ふがいない」と言われては、残念で堪えられないであろう。
水兵と大尉との問答により、子たるものは親を安心せしむべきものなること、及び今日の戦争は上下一致団体的にして、一騎先躯(一騎千躯の誤字か。一騎当千と同意)をたっとびし古えに異なることを悟らしめ、共同事にあたり熱誠を注ぐの精神を養わんとす。
「国語」という教科名を借りた、明らかな軍事教練です。大正元年、あるいは明治の終わりに生まれた母親たちもまた、「感心な母」を小学校で学んで来たのです。帰宅した子供から「水兵の母」を勉強してきたと聞かされて、母親たちはきっと「ああ、感心な母のことね」と思ったことでしょう。
いかに大正の自由な空気の中で育とうとも、母親たちは、自分自身も小学校で学んだこの話の母のように自分が振る舞うことが出来るだろうかと、わが子を見詰めて思うしか出来なかったのかもしれません。
戦争中、日本の子供たちが学んだ教科書や書籍について、これからも紹介していきたいと思います。
ちなみに明治37年にはこの詩が発表されました
君死にたまふことなかれ
旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて
与謝野晶子
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。
あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
末っ子のあなたに両親は、人を殺せと教えましたか。人を殺して自分も死ぬ人になるようにと、あなたを24歳まで育てたのですか。堺の町の商人の旧家を継いでいるあなたにとって、旅順要塞が落ちようが落ちまいが関係ないではありませんか。そんなこと商人の家の掟には何も書かれていませんよ。天皇は戦場に出ることもなく、人が互いに血を流し合い、獣の道に死ね。死ぬことが人の誉れであるなんて。夫に先立たれたあなたの母は、その嘆きの中、痛ましくも息子まで召集されて、すっかり白髪が増えてしまいました。あなたの若き新妻は暖簾の陰に隠れて泣いています。この世にたった1人のあなたをおいて、いったい誰をたのめばいいのでしょう。
反戦の詩としてして有名な与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」ですが、この詩に描かれた感情が、当時の一般的な市民感情、あるいは口に出して言える感情を示しているとは言えないかもしれません。晶子の友人で、晶子を高く評価していた大月桂月(当時を代表する詩人で歌人で評論家。各地に詩碑や歌碑が残っています)でさえ、「家が大事なり、妻が大事なり、国は滅びてもよし、商人は戦うべきべき義務なしと言うは、あまりに大胆過ぎる言葉」、「草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまえる教育勅語、されは宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざなり」と、厳しく批判しました。
桂月には、晶子の詩が社会主義思想に染まったものと感じたようで強い拒絶反応を示したようです。日露戦争に際しては幸徳秋水や堺利彦のような社会主義者や、内村鑑三らキリスト者から反対の表明が行われていましたが、当時の一般の人々は、少なくとも反戦を公然と口にしにくい状況があったようです。
「水兵の母」から離れて、長くなりましたので、つづきは別の記事としてまとめます。
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