息子へ。東北からの手紙(2013年10月17日)ボールをまわす

何もしないでいると、だんだんそのことから気持ちが離れていく。自分に何ができるだろうかと問いかけて、何もできないやと心の中で小さくつぶやくと、そのことに対する意識がだんだん薄らいでいく。そして、同時に自分自身までもが希薄になっていくような気がする。

東北のこと、原発事故のこと、日本中のさまざまな場所で起きている災害のこと、とくに今も人力による土砂の撤去が続いている広島のこと。命を落とした人、体の一部を失った人、位牌や骨壺を泥の中に探し続ける人、泥にまみれて流された衣類を見つけて涙する人…。いま自分にできることを自問して、その反動で無力感に陥っていく。せめて気持ちだけでも、がんばっている人とともにありたいと希うものの、やはり苦しい。

そんな時、自分ができないということを見なくて済むように遠ざかっていくのではなくて、意識するとしないにかかわらず、結果的に希薄な自分になっていくのではなく、やるべきことがあることに気がついた。

それはボールをまわすこと。

人間っておもしろいもので、ずっと思っているとそのことを誰かに伝えたくなる。先日は白井さんとそんなことを話し合った。そうして話をしていて思ったのは、話をすることって自分の胸の中にあるボールを相手に託すことなんだということ。

きっとボールをパスされた人も、そのボールを誰かにパスしてくれるはずだ。なにしろ自分がパスしようと思ったくらいの相手なのだから。そしてボールはつながっていく。出したボールがめぐりめぐって自分の許にまた廻ってきたら、こんなうれしいことはない。そして本当に不思議なことに、そうなるようにこの世の中はできている。

何もできることはないと思って、希薄な人になってはいけないよ。ボールをまわすことはいつだってできるんだから。そうしているうちに、東北や広島や御嶽山はもちろんのこと、海を越えてアフリカまでボールが飛んで行ったり、時間を超えて120年前のフランスや南アメリカにまで飛んでいく。会ったこともないマララさんと話している実感をもてたり、振り向くとそこにチェ・ゲバラが立っていたりする。

ボールをまわそう。まずはお前さんにこのボールをパスするよ。