地面に埋もれるようにして傾き、倒れた鉄筋コンクリートの県営アパート。新潟地震の被害の写真を初めて見たのがいつだったか覚えていないが、その時感じた恐怖はいまも忘れない。見るからに頑丈そうな鉄筋コンクリートの大きな箱が、それ自体はほとんど壊れることなく、ほぼ原形を残したまま、地面に呑みこまれていく。ありえないことが現実に起きている。かりそめにもそんなことが起きてしまったらと想像するだけで恐れ戦いてしまうような現実。おかしな譬え方かもしれないが、その写真が掻き立てたのは楳図かずおの漫画に描かれたような、あからさまな恐怖だった。
6月16日で新潟地震から50年の時間が過ぎたのだそうだ。
地震から何年も後に、1枚の写真を見ただけでも、かつての少年を恐怖させた新潟地震の記憶は、新潟県にずっと暮らしてきた人たちの中に引き継がれてきたのだと思う。いまから10年前の中越地震の後、震源近くに知人を訪ねていったら、年長の人の多くが「新潟地震の時よりも」とか「新潟地震に比べて」と、地震被害がどれくらい酷かったかを比較する対象として、当時から40年前の新潟地震を引き合いに出していた。
新潟地震はどんな地震だったのか
新潟地震
1964年(昭和39年)6月16日13時01分40.7秒、震央:38゜22.2'N、139゜12.7'E(新潟県下越沖)、震源の深さ:34km、地震の規模(M):7.5
被害:死者26、住家全壊1,960、半壊6,640、浸水15,297 最大震度:5
新潟地震はマグニチュード7.5、震度は「5」だったが、新潟県では県民の14%にあたる33万2000人が被災。実に「関東大震災後、最大級の地震」とも呼ばれたという。鉄筋コンクリートの県営住宅が倒壊したのみならず、新潟市や山形県の酒田市では、低湿地帯を中心に水と泥が吹き出す液状化現象が各所で発生。多くの建物が倒壊したほか、建物の1階部分が泥で埋まったりといった被害が出た。
新潟地震といえば液状化現象という印象があまりにも大きいが、この地震では液状化の他にも、地震の揺れによって石油タンクの中の液体がこぼれ出すスロッシング、地割れや陥没で道路がやられ橋梁が倒壊することで起こった広範囲にわたるライフラインの寸断など、現在もなお地震防災の課題とされる事象が数多く顕在化した地震でもあった。
新潟地震で多くの被害が発生した時点では液状化は原因が必ずしも明らかではなく、当時の新聞などでは「流砂」といった言葉が使われていた。原因が究明されないままに現地再建が進められた結果、新潟地震の液状化被害地域は、今後の大地震で同様の被害が生じることが懸念されている。
スロッシングでタンクから溢れた石油や、周辺に漏れ出た気化ガスにタンク側面と浮屋根式の上蓋がぶつかって生じた火花が引火し大火災が発生することが、広く一般にも知られるようになったのは2003年の十勝沖地震まで待たなければならない。
新潟地震で発生した製油所火災は、周辺の民家を巻き込みながら12日間燃え続けた。液状化による冠水が延焼を最小限に食い止めたという話もある。
インフラが寸断して避難が困難になったり、緊急車両や支援車両が立ち往生する危険性についても、認識はされているものの十分な対策がとられているとは言えない。
上に気象台からの写真でも紹介した昭和大橋は地震の1カ月前に開通したばかりだったが、地震の揺れで橋げた5つが落橋したとか。犠牲者が出なかったのは奇跡以外のなにものでもない。
新潟国体に合わせて開通したばかりの昭和大橋は、橋脚が傾いたりしたために、12あった橋桁のうち5つが落ちました。証言によると、揺れが起こって間もなく「ドラム缶が転がるような騒々しい音」がして、その後次々と落ちていったそうです。この時橋の上には人も車もおらず、奇跡的に犠牲者は出ませんでした。
さらに、この地震では津波も発生している。信濃川の流域を中心に最大4メートルの高さだったとされる。地震による液状化、地割れ、陥没、落橋が起こった場所に追い打ちを掛けるように襲い掛かった津波。同じような状況が「次の地震」で起こったら、災害に見舞われた地域はどうなるだろう。「公助」による救援はおそらく時間を要することになるだろう。「自助」で乗り切る備えと覚悟はあるだろうか。
50年という時間は長いか、短いか
今年は新潟地震から50年に当たるだけではない。新潟焼山火山災害から40年、中越大震災から10年、そして7.13水害10年の節目だ。新潟では、自然災害から得られた貴重な教訓を、風化させることなく後世に語り継ぎ、防災・減災に生かすために「防災・減災 新潟プロジェクト2014」が立ち上げられた。北陸地方整備局、新潟県、新潟市など国、県、市による実行委員会に商工会議所や地元企業などが参加しての一大キャンペーンだ。
時間の経過とともに、記憶や経験、教訓を伝えていくことは困難になる。だからこそ、節目の年に継承の機運を盛り上げようということなのだろう。
しかし、というわけではないのだが、数日前まで北陸地方整備局のWebに『新潟地震から30年「未来への記憶」へ』という記事が掲載されていた。題名のとおり、新潟地震30年を記念して、復興の足跡を未来に伝えようという趣旨で1994年に制作された冊子のPDF版だった。
そこには震災時の経験、被害の状況、復旧から復活への道のりなど、地元の人たちの体験談が盛りだくさんに掲載されていた。建設省(国土交通省)の地方機関が作成した冊子だから、「復興」を強調する色合いが濃いものではあったが、紙面には町の復活に向けて時代を走ってきた人たちの「息づかい」が溢れていた。どこか、斜め上方に未来を指さすといった雰囲気すらあったけれど。
新潟地震の被災状況を写真とマップで紹介するページ