石巻市立大川小学校(旧・河北町立大川小学校)の校舎に掲げられている校章
メッセージが回ってきました。
哲也に続いて、校舎を残してほしいという仲間の言葉を是非聞いてください。
みんな哲也と同じ気持ちでした!
※ 拡散希望
引用元:石巻の知人の友人から回ってきた拡散希望のメッセージ
ハフィントン・ポストに掲載された記事へのシェア・拡散が広がっている。
石巻市では、被害を受けた大川小学校を解体する方向で検討を続けてきたが、遺族らの強い要望があって現在、解体の計画はペンディング状態にある。
その働きかけを行ったうちの1人は、津波が押し寄せてくるなか裏山に駆け上がり、大けがを負いながら助かった、当時小学5年生だった只野哲也くんだ。哲也くんはこれまでにも、津波からの生存者として多くのメディアにその体験を語ってきた。小学5年生だった彼にとって、この春中学3年に進級するまでの時間の意味は、想像することもできないほど重たいはず。
それでも「大川小学校の校舎を残してほしい」と声をあげた彼の言葉に、同じく当時大川小学校に在籍したこどもたちが賛同し、顔も実名も出して訴えている。
10代の彼ら彼女たちがどんな思いで声をあげたか。その年代を経験したことのある人であれば、その決断の意味がわかるはずだ。
大人はこの声にどう答えるのか。
津波をかぶり、意識を失いながらも、奇跡的に助かった只野哲也君。当時大川小の3年生だった妹を亡くした。只野君は、震災直後から周囲に校舎保存を訴えてきた。今回の意見表明会の実現は、こうした只野君の思いに、4人が「私も同じ」と応えたことがきっかけとなっている。
校舎入口。校歌のパネルの何文字かが辛うじて残る
2階の教室。許可を得て上がらせてもらった。心が震えた
2014年1月、311karats。としてイルミネーションを設置
2012年には黒板の白墨の文字がかすかに残っていた
中庭。こどもたちの声が聞こえてくるような気がする
体育館への渡り廊下。津波の破壊力に言葉を失う
震災遺構と呼ばれるものの多くで、早期の撤去を求める声と保存を訴える声があった。しかし、大川小学校については個人的には、撤去を求める声は聞いたことがない。この場所は、震災遺構ではなく、町の中心だった場所。そして、たくさんの人たちがかけがえのない命を失ったことを、何度でも繰り返し心に刻む場所。
2013年3月11日に設置された「Angel of Hope」の像と大川小学校校舎
かつては小学校の建物が見えないくらい家が建ち並んでいて、その道沿いにはお店屋さんや、町を歩く人たちの姿があって、東に向かって道を行けば釣り餌の自動販売機とかもあって、休みの日には北上川の河口近くで釣りをする人の姿が、大人もこどももたくさんあって……。そんな姿の中心にあったのが小学校。大川小学校の建物のほかには、いまや何もなくなってしまった場所で、大川小学校までなくなってしまったら、町の面影がすべて失われてしまう。
避難の目標地点とされたあたりから見た大川小学校とその周りの景色
今年の3月、「3.11を記念日に」と言った人がいた。
みんな深く傷ついた。「なにが記念日だ」という声が、ひとつひとつは小さな声ではあったけれど、どれだけたくさん語られたことか。
「無かったことになどできない場所」。◆哲也君たち5人の意思表示に賛同します。人口15万の石巻市を動かすには、日本中の人たちの賛同が必要でしょう。でもそれはパワーとしての数ではなく、この場所をこころに刻む1人ひとりの想いが結晶してこそなのではないかと思うのです。
写真と文●井上良太