[空気の研究]飯島耕一の死

iRyota25

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ひとりの詩人が死んだ。というか、亡くなっていた。

「戦後を代表する詩人の一人である飯島耕一さんが、今月14日、呼吸器不全のため東京都内の病院で亡くなった。83歳だった」

というような記事を読んで、何十年も前に古本屋の100円コーナーで買った現代詩文庫の表紙を思い出した。古本屋といっても、剥がしにくい値札シールをベタベタ貼付け、ロードサイドで夜遅くまで煌煌と照明を点しているスーパーマーケット的な古書チェーン店ではなく、今日みたいに急に雨が降り出したりすると、チョッキを着て首にマフラーを巻き付けたオヤジが、店頭の歩道に不法に並べられた書棚をゴホゴホ咳をしながら店内にしまい込むような店。飲み屋と個人経営のスーパーと古本屋が雑居する場末の雰囲気と現代詩文庫の表紙を思い出した。

そんな古本屋で仕入れた飯島耕一だったが、ろくに読みもせず、いまでは1000kmも離れた実家の2階の書棚で埃を被っている。たぶん、数十年前には「感じるところ」が見つからなかったのだろう。

訃報に接した昼休み、図書館に行って飯島耕一の詩集を借りた。驚いたことには、飯島耕一の詩は図書館の奥の閉架式書庫にあるということで、若い司書さんが駆け足でカウンターを去り、そして3分くらい経ってから、息せき切らせて戻ってきて「お待たせしました」と思潮社の現代詩文庫<10>飯島耕一詩集を手渡してくれた。
昼休み時の図書館のカウンターはお客が多い上に休憩中の職員も多いから大変なのだ。気の毒に思った。

そんな経緯の末、何十年かぶりに手にした文庫をめくり、こんな作品を見つけた。



焼け錆びた一本の匙が
日の光をいっそうまぶしいものとする
とても見ていられないほどのものにする
木々がざわめいている
この匙は
かつて一人の人間がそれで食物をたべたものである
かれがどんな顔をしていかどんなことをしていたか
かれもおれたちも人間であるからには
おれたちは
それを
かんたんに類推することができる

「飯島耕一詩集」思想社 現代詩文庫<10> 75ページ

宮城県、気仙沼の山あいにあるリアス・アーク美術館。その打ちっぱなしのコンクリートの一室で、山内宏泰学芸員が語った言葉が、そのままここにあるようによみがえる。
彼は言った。

「震災で被害を受けた人のことを被災者と呼ぶように、私たちは被災地に残された品々を被災物と呼ぶべきではないか。それは瓦礫なんかではない。震災による津波を受ける直前まで、それぞれがそれぞれの持ち主とともにある品物だったのだから。そんな見方をすることが、被災地で起こったことを自らに引き寄せて、自らの体験として追体験することにつながるはずだ」

自分は彼の言に共鳴して、いろんな場所で見てきた被災物を、そこにあったかもしれない物語を想像しようとしてきた。思うことが受け止めることにつながるのだと信じて。

そして、飯島耕一が死んだいま、いかにダメダメな読者とはいえ、飯島耕一が1945年の夏の日に刻み込まれた断層が、飯島耕一の後の人生を決定づけたであろうことくらいは分かる。

詩集をぱらぱらめくるだけで、こんなフレーズがざくざくと現れる。

あたしのいい人が
いつかいったわ おれたちは
きわめて哀切な夏の死を
いっしょに死のうって なぜなら
おれたちには勇敢な死は
もうないから 暦には
もう日曜日ばかりだからって

「夕陽の中で」 思想社 現代詩文庫<10> 「飯島耕一詩集」73ページ

おれにはわからない
無暗に明るい 鉄とノイローゼの空間に
人々がどのように揺れ浮かんでいるのか。
おれは空を繋ぎとめようとした、
子供のころの死んだ青空を

「ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩」 思想社 現代詩文庫<10> 「飯島耕一詩集」62ページ

そのうえをキーンと銀色に光った一点がB29で
空はどこまでも晴れていた。おれたちは
純粋に物体としてその一点を見あげていた。

「アメリカ交響楽」 思想社 現代詩文庫<10> 「飯島耕一詩集」83ページ

1930年生まれの飯島耕一は、僕の父の5歳年下だから兵隊に行くことはなく、
だがそれだけに、おそらく純粋な軍国少年としての少年時代の時間を
昭和20年の真夏のあの日まで生き続けてきた挙げ句に、
国家を瓦解させる断層によって一遍に、それまでのすべてを失っしまったのだろう。

あの夏の日までの軍国少年と、あの夏以後の自分。
そこで引き裂かれたものが、飯島耕一を詩人にさせたものだということは明白だ。

だからこそ知りたいことがもうひとつある。

飯島耕一の詩「匙」はこう続く。

かれが日の光を
まぶしがったり
木々のざわめきを愛しただろうことは
はっきりわかる
しかしかれをアウシュヴィッツで殺した者
がそんな人物だったか
おれたちには
わからない
それを思い描くことがたやすくは
できない
ただ手ずれた
大きなハンカチから取り出された
一本の匙が
無料のことばを告げ
とおく
あの年からきたと考えていた
おれたちをかぎりなく引戻す
一月の
日の光は
ただしずかにひろがり
木々はなおもざわめき、揺れやまない。
      (六一年一月アウシュヴィッツの遺品を見て)

「飯島耕一詩集」思想社 現代詩文庫<10> 76ページ

ことばがストレートに「アウシュヴィッツ平和博物館」につながっていく。

つながれた先のアウシュヴィッツ平和博物館は、日本におけるその平和記念館がたつ、
原発事故で降下したセシウムなど多種多様な放射性核種によって汚染された、
しかしそれでも見た目には美しい田園風景の現実につながっていく。

アウシュヴィッツ平和博物館が福島県白河市にあったことで、
飯島耕一の詩は福島に直結している。

人類にとってのマイナスを多層的に体現する場所につながったことで、飯島耕一の言葉はホロコーストや原爆、そして原発にも連なっていく。それは単に被害者の立場としてではなく、加害者にもなりえた軍国少年としての蓋然性も含みつつ。それだけに、強さとか弱さとか正義とか悪といったものではない、人間そのものの声として。

福島原発につながった詩人の詩は、原発によってもたらされた苦難や
原発がいま置かれている苦境そのものでもある。

すでに被災物をめぐる思いをとおして、失われたものとの架橋を試みたことにより、
詩は、2013年、いまここにある現実のすべてと接続されている。
東北のみならず、日本や世界と。

そんな人だったんだと、訃報に接したその日になってようやく気づいた。2011年3月の小雪舞う早春の寒い日から2年と7カ月を経過した後、詩人は死んだ。

1945年の暑い夏の日の断層によって、詩人が生まれたのだとしたら、
小雪舞う早春の寒いあの日から以降、

飯島耕一は人生の最後にもうひとつの断層を引き受けることになったのだろうか。
だとすれば、それはどんな受け止め方であったのか。

たくさんの犠牲を強い、今もなお苦しみを強い続けるあの出来事に

正しく断層として向き合う方法があるのかどうか、
詩人の死の知らせに接し知りたいと切望した。
おおきなものを失ったことに改めてただ驚かされるばかりだ。飯島耕一さんへ
ご冥福をお祈りします。
祈るとともに、やるべきことへの思いを新たにしています。

●TEXT:井上良太

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