東北の電器屋さんに教わったニッポン百年の計のカギ

むかしむかし、日本の家にはコンセントがありませんでした。
電気が家庭にやってきた当時、電気の使い道は電球の明かりなので、電気料金の契約も一軒のお家に一灯というのが一般的だったからです。お家の家電は電灯ひとつ。だからコンセントなんて存在しない。
でも、そのうちすぐに電灯以外の電気製品が登場し始めます。電気アイロンとか電熱器とか電気ストーブとか。いずれも電源コードをコンセントに差し込むのではなく、白熱電灯のソケットにねじ込むプラグで電気を取るように作られていました。そうなると、夏の夜の茶の間での団らんのひと時に扇風機を回したいとか、針仕事をするのに手元を照らす電球がもう一灯ほしいわ、といったニーズが出てきます。そんな希いに応えるために発明されたのが二又ソケットというものでした。

白熱電球とソケットの間に、電球の口金と複数の口金の受けのあるソケットを挟んで、電灯を使いながら別の電気製品も使えるようにした製品です。(えぇい、言葉で説明するのがこんなに面倒だとは!)

日本の家庭の電化は、大正時代に発明されたこんな道具からはじまったのです。

と、ここまではほんの前段。ここからが本題、町の電器屋さんと被災地の将来をつなぐ話です。

1970年代

暗い夜を明るく照らす電気の明かりは、それ自体とても貴重なものでしたが、洗濯機、冷蔵庫、ラジオ、テレビ…、と家庭に電化製品がどんどん普及していく上で、大きく貢献したのは町の電器屋さんでした。

家庭用電化製品って、普段から使っていれば「あって当たり前」のものですが、どれをとっても発明品。これまで世の中に存在しなかったものばかり。これまでなかったものだから、ただお店に並べておくだけで売れるものではありません。野菜や豆腐や乾物みたいに、これが美味しいという基礎知識や判断材料がお客さん側にはありませんから、「これ何?」からはじまって「どんなところが便利なの?」、「これとあれなら選ぶポイントはどこ?」といった多彩な疑問に応えながら、お客さんに興味を持ってもらうのが電器屋さんの仕事でもあります。

たとえば洗濯機。
誕生した当初の洗濯機は洗濯物と水をスクリューで撹拌し、手動ゴムローラーに洗濯物を挟んで水を絞るという原始的なもの(しかも初任給の半年分近い高価な商品)でしたが、一般に普及するようになったのは「二槽式洗濯機」の登場以降です(昭和40年代以降くらい)。
二槽式といわれるのは、洗濯槽と脱水槽の二つの槽があるからで、洗濯槽で洗った衣類を脱水槽に移して絞り、さらに洗濯槽に戻してすすいで、脱水槽で水気を切ってという使い方をします。

当時の主婦にとってあこがれの家電ですが、言葉で説明すると「面倒くさそう」とか、タイマーとかスイッチも多いので「難しそう」と思ってしまうお客さんもいたかもしれません。

そんなお客さんの不安に対して、新しい「価値」を提案してきたのが電器屋さんです。盥の前に長時間かがんで洗濯板でゴシゴシし続ける腰が痛くなる作業から解放されるんですよという「夢」や、余った時間を有意義に使えるですよといった「希望」を伝えるエバンジェリストだったと言ってもいいかもしれません。

夢とか希望につながる提案を店頭で行う。品物を売るだけではなく、配達から設置、不具合があった時の修理などトータルなサポートを行う。それが町の電器屋さんの仕事でした。

テレビもエアコンもステレオも、1つひとつの家電品に「ついにお家にやってくる!」という嬉しいストーリーがあり、そこには「毎度~」と玄関を開く電器屋さんの姿があったのです。

1980年代以降

町の電器屋さんは、家電メーカーにとって大切なお得意さんでした。つくった商品を売るための、ほとんど唯一の販売チャネルだったからです。だからメーカーは電器屋さんとの関係を深めるために系列化を進めます。カタログやチラシなどの販促グッズを提供したり、お店の改装を援助したり(改装後のお店の看板には、もちろんメーカーのロゴマークが掲出されます)、販売実績に応じて報奨金を出したり。町の電器屋さんの系列化は、家電がどんどん普及しはじめた60年代から進みます。電器屋さんのお店の前には特販店であることを示すメーカーのキャラクター(ナショナル坊や、光速エスパー、ポンパ君、メル子ちゃん、ソニー坊やとか:さて、いくつご存知ですか?)が置かれていたりもしたんですよ。今ではちょっと想像しにくい光景でしょうが。

全国の家電系列店の数は、全盛期には3万店とも5万店ともいわれます。現在のコンビニエンスストアに匹敵するほどの数です。日本人の家電購買意欲は現在からは想像できないくらい大きかったのですね。現在のコンビニと同様に、家電メーカーはキャンペーン企画や販売方法の指導など多彩な支援を行って、自社製品の販売を伸ばそうとメーカー各社間で競い合っていました。

カラーテレビや2ドア冷蔵庫、電子レンジ、全自動洗濯機、ステレオ、エアコンといった家電の数々は、それぞれ時代の最先端のアイテムとして、町の電器屋さんから日本中に広められていったのです。

そんな中で、ナショナル坊やをキャラクターに使っていたメーカーが系列店の数や売り上げで、他社との間に大きな水をあけてリードしていきます。創業直後に二又ソケットの販路開拓で苦労した経験から、販売店と共存共栄することを旗印に掲げてきたメーカーならではの、特別な力の入れようがあったのかもしれません。

しかし、同じころ家電製品のもう1つの販売チャネルが誕生しました。それは量販店です。かつて家電の安売りといえば、東京の秋葉原や大阪の日本橋のような電気街か、九州のベスト電器のように一部地域の家電販売チェーン、あるいは各地で系列に入らずにアウトロー的に営業していた個人店くらいでしたが、1970年代には全国チェーンの大型スーパーが家電製品にも力を注ぐようになります。

より安く売りたいスーパーと、規定以上の値引きをするなら品物を納入しないとする家電メーカーの間で「戦争」と呼ばれる状況まで発生しました。
日本一の系列店数を有するメーカーは、設定以上の値引きに徹底して阻止しようとしました。それはブランド価値を守る戦いであったとともに、系列店の経営を守るためだったとも言われています。

量販店との戦い続けるメーカーがある一方、量販店で積極的に商品を扱ってもらおうとするメーカーも出て当然です。

なぜなら――、
系列店販売では店舗数のアドバンテージを引っくり返すのは大変です。しかし、各社横並びで展示される量販店なら、魅力ある商品を安く提供することで売上の伸びが大いに期待できるから、シェア拡大にはオープンな競争の場がもってこいだからです。

やがて、家電販売全体の中で量販店が占める割合は徐々に大きくなっていきます。
さらに1990年代になると、家電量販店と呼ばれる店が全国的に急増していきます。何でも扱うスーパーではなく、家電に特化した量販店。大量仕入れで仕入れ価格を下げることで、圧倒的な安値販売を実現し、テレビでもビデオカメラでもガンガン宣伝してお客さんを集め、どんどん店舗を大型化、さらに郊外へと進出していきます。

家電の価格競争はエスカレートしていきます。
町の電器屋さんにとっては苦難の時の訪れでした。

2000年代〜そして震災

家電の価格競争は地方都市にも及びました。東北の小さな町にもやってきました。

「値段の差が1割くらいなら、サービスを売りにして渡り合うこともできるけど、2割以上開いたら、なかなか勝負にならないんだよ」

震災の後、仮設店舗でお店を再開した町の電器屋さんに聞いた話です。被災地の仮設商店街ではどうしたことか電器屋さんと知り合いになることが多くて、何軒かの電器屋さん(系列も違う)から同じような話を聞きました。皆さんが口を揃えるのは、すでに震災の前からそんな状況だったということです。

「系列店の販売支援に力を入れてきたメーカーにしてみても、他社が家電量販店で売上げを伸ばしているのを横目で見ていると、どうしても量販店での勝負に力を注がざるを得なくなったんだろうね。まあ、動く品物の数が違う。主戦場があっちなんだから仕方がないのかもしれないけどね」

量販店に卸す値段と、系列店に卸す値段に差があるのだから、経営規模がはるかに小さな町の電器屋さんには歯が立たない――。

実際、そういうことなのだそうです。
たくさん仕入れてくれる量販店への卸価格は、系列店へのプレッシャーになると分かっていても下げざるを得ない。生き残るためにはやむを得ない。これまでお世話になった系列店にも、できるだけ手当をしたいけれど、最終的には自助努力で頑張ってもらうしかない。

町の電器屋さんの運命は風前の灯なのか…。
しかし、話をしていると、どうもそれだけではないのです。

ここから急に説明するのが難しい話になるのですが(話そのものは単純なことなのでご安心を)、町の電器屋さんの中にはどうやらビジネスだけじゃないところで働いている人が少なからずいるように感じるです。とくに震災をきっかけにして、町の電器屋さんとしての役目を再認識したと話してくれるお店が。

「もう年だから、仮設商店街を出る時には店を閉じようと思うよ。津波で流された場所にもう一度家を建てて、表向きはお店じゃないけど、玄関先には電球とか電池とかは置いといてね、近所の人から頼まれたら、今いくよーって。そんな風にしてやっていきたいんだ」

しみじみ話してくれる老夫婦がいます。

リモコンの調子が良くなくて、と呼ばれてお客さんのお宅を訪問して、お茶をいただきながら1時間以上も話し込んで、リモコンの電池だけ取り換えて帰ってきて、「おれのいまの仕事、時給いくらになんだろ? でも、自分たちの仕事ってそういうことだと思うんだよね」と噛みしめるように話す壮年店長さんがいます。

「お得意さんの息子さんから、仮設に入ることになったんで、亡くなったばあさんが良くしてもらっていたお店で買いたいんです、ってほとんど面識もなかったのに連絡してくれた人がいたんだ。ありがたかった」

「急なお客さんがあったから、急いでストーブを持ってきてって言うんだ。灯油も持って行ってやっぺかな」

「震災の後、思ったんだ。これまで自分は家電を売るのが仕事だと思ってきたけれど、実はそうじゃなかったんじゃないか。お茶したりおしゃべりしたり、お客さんと時間を過ごすことで商売とは関係ない話をいろいろ聞いたり、ほんの少しでも気持ちが楽なってくれたらうれしいな、とか。そんな、うまく言えないんだけどコンサルみたいな仕事だったんじゃないかって思う。お客さんのお宅に、当たり前みたいに上げてもらって、お茶をいただき、おしゃべりする。町の電器屋さんだからこその仕事なんじゃないか」

町の電器屋さんの強みは、まさにそこにあります!
メーカーももちろんそのことには注目していて、系列店のテコ入れのためにこんなことを提言しているようです。
「長年の付き合いから知り得た顧客情報、つまり家族構成や経済状況、ライフスタイルなどに合致した提案を個々の顧客に対して個別に行うことで業績の改善を図る」
ビジネスとしてはまさにそういうことなんだろうけど、なんか違う。
言葉の中に流れているものが違う。

町の電器屋さんたちは、そんな話を横目に聞きながらも、
お客さんちに行っては、ズズッとお茶をすすって世間話をして帰ってくるのです。

「50万円くらいする大型テレビを買ってくれたりしたら、そりゃありがたいだろうけど、お客さんが望んでないものは売れないもの。今日は乾電池だけでも、いつか冷蔵庫とか洗濯機とか買う時には量販店じゃなくてうちで、って思ってくれたらいいんじゃないかな。いざ買う時になって、やっぱり安い方がいいってことも少しはあるかもしれない。それでも、お客さんとちゃんと付き合っていれば、やっていけると思うんだ。オレって商売が下手なのかな。でも、今までもこうしてやってきたんだ。別に商売下手ってことではないはずなんだよね」

まっとうだと思いました。
お客さんとお店と、双方が満足できて、そのつながりが単純な売り買いではない、ずっと深いものだと思いました。

与太な妄想かもしれませんが、人口が減少していくこれからの世の中では、イケイケドンドンではない、こういう商売のあり方がとても大切なはずです。しれっと書いていますが、実際には電器屋さんたちの言葉に衝撃を受けていました。

同時に、次のようなことも考えました。

日常的な付き合いの中で商売を成り立たせて行く、ちょっと非効率に見える商売が成り立っている地域があったとしても、その外側に効率だけが絶対化されたビジネス環境が広がっていれば、外側と無関係ではありえない内側のエリアもやがて外側の環境に浸潤されて、いつか飲み込まれてしまうのではないか。

ちょうど、系列店に手厚い施策を行って、
ともに栄えて行こうとしていたいくつかのメーカーまでが、
価格競争重視の環境が主戦場になって行く中で、
系列との関わり方を変えていかざるをえなかったように。

さらに突っ込んで考えてほしいのは、いま日本の家電メーカーが、海外からの安い製品に押されて、おしなべて苦境に立たされ、かつて主力だった部門(テレビとか白物家電とか)から撤退しているということです。

町の電器屋さんを苦境に追いやったのと同じ価格競争という枠組みで、今度はメーカーが苦しんでいます。

右肩上がりの成長路線は、いつも同じような危険をはらんでいるような気がします。

その点、町の電器屋さんには、買ってくれるお客さんと密接につながっているという、最終的な強みがあります。
コミュニティの中のつながりを密にすることで、品物やサービスやお金を回して行くような世の中。大金持ちにはなれないかもしれないけれど、喜怒哀楽、とりわけ笑顔が濃厚な世の中。

電器屋さんたちと話をしていると、そんな妄想が、自分の身近な歴史の振り返りの中から浮かび上がってくるのです。

きっとそういうことなんだろうなという、
明確な輪郭をもって。

●TEXT:井上良太(ライター)