2013年6月22日 福島県いわき市久之浜~富岡町
伊豆への短期ツアーに出かけるこども達を乗せたバスを見送った後、久ノ浜の駅前広場で佐藤大さんと長く話した。
大さんは第一原発の5・6号機がある双葉町の出身で、彼自身も原発で働いていて、巨大地震の瞬間は敷地内の事務棟にいたそうだ。震災直後から家族とともに西に逃れて、静岡県の浜松市で避難生活を送っている。震災の年の7月以降は、はままつ東北交流館という組織の館長として、東北から避難してきた人たちのネットワークづくりや情報共有などの活動を行ってきた。
「まるで何もなかったようなことになっているじゃないですか、被災地の外側では。」
大さんは、今回の取材に同行した下重さんに、
噛み砕くようにゆっくり淡々と語り始めた。
浜松でも人々の関心は急激に薄れているという。震災から1年は多くの人が訪れていた交流館も、2年目以降は、市の支援が打ち切られたため移転したことも大きいが、来館者が激減した。日に何人、週に何人ということもあるという。
ワンフレーズ語るたびに、大さんは唇をかむような、でも、すぐにそうすることを思いとどまるようなそぶりを繰り返す。
大さんと話したのは、原発事故のせいで生活基盤を失った人たちのこと。ふるさとから出て行くことを余儀なくされた人たちは、コミュニティを離れ、見ず知らずの土地で避難生活を続けている。県外に避難している人の数は5万5000人以上。孤立している人も少なくないだろう。もちろん生活は大変。地元との情報ギャップも深刻だ。
にもかかわらず、外側にいる人にはその現実がまるで伝わらない。大さんは何度も唇をかむようなそぶりをしながら語り続ける。
「何もなかったようなことになっているところから、変えていかなければ。」
被災地は復興している。もうサポートはいらない――、
日本中を覆いつくすそんな空気を打ち破るためには、自分の目で見てもらうことが一番だ。来るのが大変だったら、現場を見た人が伝えていってほしい。ネズミ講みたいな形でもいいから、現実を伝えていく、広めていくことが大切だ。
そんなネズミ講なら大歓迎。父さんだってエバンジェリストとして参加したいと思ったよ。そして、その後「ぜひ見てきて」と勧めてくれた富岡町を見に行って、大さんの言うことがよく分かった。
詳しくは写真を見てほしい。
長く立ち入りできなかった富岡町は、道路が片付けられただけで、住宅も工場も駅の施設も震災直後の状態のまま残されていた。震災直後に映像で目にしたそのままの姿だ。いや、ほかの被災地と決定的に違うことがある。それは、破壊された町の中に、ところ構わず夏草がぼうぼうと茂っていて、場所によっては壊れた建物や車を覆い尽くそうとしていたこと。
時間――。
決定的な違いは、時間だ。あの年の分もいれてカレンダーは3冊目。
人が消えた町に夏草が伸び始め、草ぼうぼうになって枯れて、また生えて、枯れて、さらにもう一度、夏草が背丈を伸ばそうとしている。それだけの長さの時間。
町は少しずつ朽ちていきながらも、その時間を耐えてきた。
町から出ざるをえなかった人たちは、何も決められない状況の中、
宙ぶらりんの苦しみを味わい続けている。
町を出て行った人たちにとって時間とは、もしかしたら、
ただ過ぎていくままに任せるしかないものだったかもしれない。
真っ青な明るい空の下に広がる絶望。
それでも、なんとか未来の光明を見つけようと動いてきた人たちもいた。
大さんが唇をかみながら生きているのは、そんな時間なんだ。
富岡町を訪ねたのは、
曇り空と初夏の青空が目まぐるしく入れ替わる日だった。
凶暴な被災の爪痕が町全体に残っていた。
一方、光の具合によっては神々しい風景画のように見える瞬間もあった。
雑草に覆われた空き地の空で、雲雀がけたたましく縄張りの声をあげていた。
人影はほとんど見かけなかった。
町の姿を前にして、今度は俺が唇をかんだ。
人の姿がないということは、
町のほぼすべての人が、ここから離れた遠い場所で、
先の見えない宙ぶらりんな状況の中、唇をかんでいるということだ。
「まだまだ支援が必要だ。」
大さんの言うとおりだ。町の姿をこの目で見ることで、
無人の町の向こうに、人の姿が見えてくる。たとえぼんやりとでも、
人々の姿が少しずつ近づいてくる。
「順路」や「解説」なんて用意されていない被災した町で、勘だけで歩き回りながら、そこにある現実の風景をどうにかして自分なりに胸におさめていく。何時間歩いても歩き足りなかった。