[関東大震災の記憶]大正十二年日記~官僚の日記に見る大震災

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倉富勇三郎さん

倉富勇三郎さん

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司法省の官僚として長年国のために務め、関東大震災当時には枢密院顧問官という重職にあった倉富勇三郎さんの日記が国立国会図書館のホームページで公開されています。

漢文の読み下しのような硬い文章なのに、読んでいくと人間味が伝わってくる不思議な日記です。国家の中枢にあった当時の高級官僚が大震災をどう見たのか。炎が広がる町でどのように過ごしていたのか。国家の一大事と家族の安否を思う気持ちが織り交ぜられた勇三郎さんの日記を抜粋して紹介します。

○九月一日土曜 晴
○午前安をして有馬泰明に贈る書留書状を出さしむ
○午前九時三十分頃より出勤す
○午前十一時五十五分頃徳川頼倫、予の事務室に来り、徳川か先日より暑を別府の近傍に避け居りたるか、昨日帰京したることを告く。避暑中の状を談す。十一時五十八分頃地大に震ふ。予等尚談を続く。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

安をしての安は後にも出てきますが、おそらく勇三郎さんの娘さんでしょう。娘さんに書留郵便を出しにやらせて、9時30分頃に出勤。お昼前に訪ねてきた知人の徳川さんと避暑の頃のことなど話しながら過ごす。そんな当たり前のような日常が語られます。その時地震が彼らを襲うのですが…。震災の日の日記に彼はなぜこの前文を書いたのでしょう。ただの備忘録? 震災の町を歩き回り、家族の安否を心配し、激しい震災の中で枢密院顧問官としての職責を果たそうと奔走し、町を焼く火を夜通しまんじりともせずに見つめていた勇三郎さんが、そうした苛烈な経験をした後に、この前文から震災の日の日記を始めているのです。理由は分かりません。分かりませんが、そこに何かたいせつなことがあるような気がしてなりません。

震愈々激しく壁土落つ。予、徳川期せすして走り出て非常口に至り高廊を過ぐ。歩行すへからす。強ひて走りて屋外に出つ。十分間許の後、震稍々歇く。予乃ち審査局に達す。書類及帽を取り来らんとて高廊の辺に到る。復た震ふ。乃ち復た走り出つ。又十分間許にして審査局に達す。倉皇書類及帽を取り来る。尚ほ傘を遺す。西野英男に嘱して之を取らしむ。屋外に居ること十四五分間許青山操、鈴木重孝と歩して帰る。馬車又は自動車に乗らんと欲し西野英男に嘱し主馬寮に謀らしめたるも、混雑の為弁せさりし故、歩して帰りたるなり。坂下門に到る。門衛、門台の瓦墜つるを以て其恐なき右方を通過すへき旨を告く。之に従ひ門を出て広場に到る。地屡々震ひ歩すへからす。屡々歩を停め、震の止むを待ち、復た歩す。桜田門は瓦の墜つる恐あるを以て凱旋通を経て濠岸に沿ひ、参謀本部前を過き独逸大使前より赤坂見附を経て家に帰る。宮城前の広場に出てたるとき、既に警視庁附近及日比谷公園内に火あるを見、参謀本部前を過きるとき赤坂に火あるを見たり。沿道処々に家屋の倒壊したるものあり。難を避くる人は皆屋外へ出て居りたり。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

地震はいよいよ激しく壁が落ちた。自分と徳川さんは思わず走り出して、非常口から、高廊(吹き抜けに面した二階の通路か)を通って外に出る。歩行できないほどの揺れの中、強いて走って外に出た。10分ばかりして揺れが少しおさまってきた。自分は審査局に行き、書類と帽子を取りに行こうと高廊に差し掛かったところで、また揺れがきて走って外へ逃げる。また10分くらいして審査局へ戻り、あわてて書類と帽子を取って戻る。それでも傘を忘れたことに気が付く。傘は西野英男さんに頼んで取って来てもらう。

大切な書類と「帽子」を取りに行こうと執務室に戻ろうとするが、余震がひどくて一度は途中で引き返したけれど、どうしても失くすわけにはいかなかったのか、何とか取りに行ったものの、あわてふためていたせいか傘を忘れ来てしまう。地震に遭った勇三郎さんの狼狽する様子が伝わってきます。

その後彼は知人とともに歩いて家に向かうのですが、一度は車か馬車を使わせてもらおうとするが諦めて歩いて帰るわけです。その途中も門衛から瓦が落ちてくるから右の方を歩くように言われたり、繰り返し襲ってくる余震で何度も歩けなくなったり、あちこちで火の手があがるの見、また倒壊した家々を見、余震で潰れるおそれから屋外に出ている人たちを見ながら家にたどり着きます。ところが、

既に家に達す。門側より家の両辺を周らしたる錬瓦塀は全部倒壊し、屋内の器具散乱し居り、人影を見す。内玄関より入り茶の間及書斎を経て庭上に出てたるも、家人在らす。塀の倒れたる為、隣家池田寅次郎の家と界牆なきこととなりたる故、直に池田の庭に到り、家人の所在を知らさるやを問ひたるも、之を知らす。乃ち復た家を出て池田の家傍を過き、安藤則光の庭に到る。数十人避難して此に在り。内子、安、婢、敏、静、沢三人亦此に在り。予、皆無難なりしを喜ふ。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

家に帰ってみると、門から家をぐるりと囲んでいた煉瓦塀がすべて倒れ、家の中は物が散乱。そして困ったことには家に誰の姿も見えない。家の中を探してもいない。このあたり、彼の心臓の鼓動が聞こえて来るようです。

塀が倒れたのでそのまま歩いて隣の庭に入り、家族のことを知らないか尋ねるけれども知らないと言われる。ここがこの人の性格なのでしょうが、倒れた塀を越えて隣家の庭に入っているのに、いったん自分の家の敷地に戻ってから家族を捜しに行っているんですね。そして安藤さんちに数十人避難している中に、家族の姿を見つける。日記だから細かく書かなくてもいいのに、お手伝いさんの名前までひとりひとりここに書きつけています。「予、皆無難なりしを喜ふ」。堅苦しい漢文みたいな言葉の向うに、心底安堵した彼の表情が目に浮かびます。

内子、震起りたるとき、安と共に勝手口より出て、裏門を出てたるとき、安か頻りに自分(内子)を推して前面の隣家の牆塀に近かしめたるか、其時早く其時晩く自家の錬瓦塀か虖然として自分(内子)等の在りたる方に倒れ、塀の上端と自分(内子)等の在りたる所とは僅に一尺許を隔たり居りたるに過きす。安は自分等の後方の塀の倒れたるを見て自分(内子)を推し危難を免ひしめたる由なるも、自分(内子)は塀の倒れたることには気附かす、幸に難を免れたりとの談を為し、予は此談を聞き内子等の無難は真に幸なりしことを知りたり。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

浅学ゆえ内子さんというお名前なのか、家内という意味で内子と呼んでいるのか分かりませんが、おそらく奥さんのことでしょう。震災直後の危機一髪の様子を教えてもらって、そのことをそのまま日記に書き記しています。

勝手口から裏門を出た時、後ろから娘の安がしきりと自分の背中を押す。隣の家の塀の方へ押しやろうとする。その時早くその時遅く、背後の自分の家の煉瓦塀が倒れ掛かってくる。自分が立っていた場所と、倒れた煉瓦塀との間には1尺ほどしか離れていなかった。「安のおかげで助けられたのですよ」との奥さんの声も聞こえてくるようです。

晩の内、安藤の庭より返る。安及婢等と共に震を庭上に避く。是より先き内子は安をして防水布を市に購はしむ。幸に其家災を免れ数尺を購ふことを得たり。之を用ゐて寝台二脚を蔽ひ雨露を凌く設備を為せり。午後五時頃に至り安藤則光、予か家の庭隅崖を為し崩壊の虞あるを以て、安藤の庭上に来るへき旨を告けしむ。乃ち寝台及蓋布等を携へて安藤の庭に移る。庭上に露坐する者数十人、坂田稔及ひ其家族亦来り居れり。午後安藤の庭に在るときは赤坂田町辺より起りたる火、南北に広まり、一ツ木町に近き将に予か家の附近まてを延焼せんとする勢なりしか、風向急変したるを以て幸に之を免かるることを得たり。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

夕方になって安藤さん家の庭から家に帰るが、安やお手伝いさんたちと一緒に、余震の危険を避けて庭で過ごした。内子は安に防水布を買いに行かせたが、幸運にも震災を逃れたお店で数尺の防水布を買うことができた。これをベッド2台に蔽うように掛けて、雨露をしのげるようにした。

自分は外で寝もするが、家族の女性たちのために応急のテントを作ったというわけでしょう。家族のため、ありあわせのもので工夫する。いつの世も、そして平民でも男爵様でも考えることは同じなのですね。とそこに友人がやってきます。

「倉富さん家の庭の端の方は崖になっていて崩壊する危険があるから、うちの庭に避難なさい」

そう言われた勇三郎さんが、それじゃあとベッドのテントを持って避難するというところにも、難の中にあっての彼の人となりが感じられます。避難した安藤さん家の庭で、別の知人にも会っているのですね。

そして気になるのは何をおいても火災です。東京でも山の手よりの赤坂付近では、隅田川沿いの下町ほど猛烈な火災旋風に見舞われたわけではなかったのかもしれませんが、それでも住宅が密集する赤坂田町あたりから起こった火の手は、一ツ木通りのわが家に迫りますが、急に風向きが変わったことで何とか難を逃れます。

午後五時後、枢密院書記官堀江季雄自動車に乗りて来り。急に内閣総理大臣官舎にて枢密院会議を開かるることとなりたるか、通信機関絶無と為りたる為、顧問官を招集する方法なく、自分(堀江)か陸軍省の自動車を借り顧問官の家々に就き出席を求め居れり。午後七時まてに総理大臣官舎に行き呉れよと云ふ。予、之を諾し、六時三十分頃より歩して官舎に行く。外務大臣取扱内閣総理大臣兼内田康哉、内務大臣水野錬太郎、司法大臣岡野敬次郎、陸軍大臣山梨半造、農商務大臣荒井賢太郎、鉄道大臣大木遠吉、逓信大臣前田利定、文部大臣鎌田栄吉、内閣書記官長宮田光雄、法制局長官馬場鍈一等在り。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

午後5時に枢密院の書記官が自動車でやってきます。枢密院の会議を開くことになったが電話も電報も使えず、通信の手段がないので陸軍省の自動車を借りて顧問官の家々を回っているということでした。7時に総理大臣の官舎に来てくれとのこと。6時半から歩いて向かった首相官邸にいた人物の名はしっかり書き記されています。ここでは公人の顔ですね。

時に官舎南隣中華民国公使館正に焼く。火焔官舎に迫まる。大臣等皆官舎の庭に在り。顧問官は予の外一人も来り居らす。既にして井上勝之助来る。予より水野錬太郎に会議を開くことを得るやを問ふ。水野之を開く積りなりしも、顧問官の出席も困難ならんと思ひ戒厳令を出さるることは之を止め、政府の責任を以て臨機の処置として出兵を要求せりと云ふ。予、井上と然らは別に用務なきやと云ふ。水野然りと云ふ。予等乃ち去る。荒井に震災火災の程度を問ふ。荒井農商務大臣、官舎余程破損せり、私宅は近辺より(江戸川)より火起りたりとのことなるか、或は延焼するやも図り難しと云ふ。

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

その時、首相官邸の南隣にあった中華民国の公使館がまさに火の手に落ちた。首相官邸に燃え移るかもしれない。大臣たちは庭に出た。枢密院顧問官は自分一人しかいなかったが、井上勝之助さんが来た。自分の方から内務大臣の水野錬太郎さんに枢密院の会議を開くのかどうか尋ねると、開くつもりではいるが顧問官がほとんど出席できないので開けない。だから戒厳令を出すことはやめて、政府の責任で軍隊に出動を求めた。(戒厳の宣告のは枢密院の職務だが、会議を開けないから戒厳令は出せない。しかし、非常時であるから政府の責任で軍に治安出動を要請し、実質的に同様の措置をとったという意味)

そういうことなら顧問官の仕事はないだろうから、井上さんと一緒に「それでは用はもうないのか」と尋ねると、水野さんは「そうだ」と答えた。だから自分たちは官邸を辞することにした。

帰り際に農商務大臣の荒井賢太郎さんに震災火災の程度を尋ねると、「官舎はそうとうな被害を受けている。自分ん家は近所(江戸川)から火が出たということなので、あるいは延焼してしまうかもしれない」と話した。

震災直後に政府がどう対応したかという歴史的価値のありそうな資料的な側面と、用事がないなら家に戻りたい、延焼が心配という私人としての思いが日記の文字の向うで交錯しています。

七時後家に帰り庭上にて夜を徹し、火勢を注視し一睡もせす

大正十二年日記(テキスト) | 史料にみる日本の近代

家に帰った勇三郎さんは庭で一夜を過ごします。震災の後、歩いて自宅へ向かう途中で見た赤坂あたりの人たち同様、余震で家が潰されるのが恐ろしかったのでしょう。しかし、そんな勇三郎さんの瞳に映っていたのは、燃え続ける町の様子でした。「あるいは延焼してしまうかも」という荒井さんの言葉が彼の脳裏には張り付いていたことは想像に難くありません。

大正12年9月1日 倉富勇三郎関係文書 5-8 | 国立国会図書館
大正12年9月1日 倉富勇三郎関係文書 5-8 | 国立国会図書館

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