【東北の風の道】まつり・つどい・いのり(第2号)

「ここに生まれる夢 ここで育つ未来」

「幸せって 未来を信じて生きること」

高田高校書道部の筆メッセージがこのまちの未来を示している。

希望のかけ橋は解体されるが、新たにたくさんの希望が町に生まれ、育っていくのは間違いない。去年よりもっと美しくと、七夕飾りを毎年毎年作りかえていくのと同じこと。解体されていく希望の橋を目前にすると、このメッセージが心にしみる。

5回コールド完封負け、それでも

15回引き分けの翌日の再試合を制しベスト8に進んだ今年の高田高校野球部だが、準々決勝で当たった盛岡大付属高校の前に14対0のコールド負け。この夏の戦いを終えた。

敗戦から間もないので不謹慎かもしれないが、感謝を込めてこう言いたい。チームは来年に向けて新生・高田高校野球部として出発する。高田高校の野球はこれからもずっと続いていくだろう。今年の経験は高田野球の一部となって生き続ける。そして、甲子園を目指すという意味での高校時代の野球を終えた3年生たちにとっても、輝く明日を目指すチャレンジはずっと続く。野球を通じて夢をくれた球児たちのこれからの活躍に期待したい。

しかし、こんな挨拶みたいなことを述べるより、もっと素晴らしい言葉があることに気がついた。

「ここに生まれる夢 ここで育つ未来」

「幸せって 未来を信じて生きること」

何度でもつくり直す。新しい夢を生み出していく。未来を信じて生きていく。

何十年も何百年もつくり換えられてきた橋

希望のかけ橋が架けられた気仙川を遡っていくと、まるで昔話に出てくるような木の一本橋が架けられている。その名は松日橋。岩手県内でも数少なくなった古い木橋のひとつだという。

この橋のすばらしいところは、橋そのものが壊れることで集落を洪水から救う構造になっていること。そしてもっとすごいのは、洪水の際には橋が分解する構造ながら、橋板だけは流されることなく、水量が減ったら集落のみんなが総出ですぐに橋を造り直せるようにできていること。

壊れたら造り直す。また壊れたらまた造り直す。

この橋の美しさは、そんな人々の営みが形作った造形だからに違いない。そしてこの橋のことを思うと、ある歌を思い出さずにいられない。それは石川さゆりの「浜唄」だ。

二千年 二万年
浜じゃこうして 浜じゃこうして 生きてきた。

引用元:石川さゆり「浜唄」作詞:なかにし礼 作曲:弦哲也

浜唄は東松島の大曲浜獅子舞とゆかりの深い曲だが、東松島の浜だけでなく、東北の、そして私たち日本人の根っこにつながる歌のように思えてならない。人々がつどい、まつりを行うその背景にいのりがあり、いのりの背景には人と人のつながりがある。二千年、二万年、私たちはこうして生きてきた。

そのことを思い出させてくれる東北の祭りがはじまる。

震災を越えて復活した久之浜の花火大会

いわき市久之浜で花火大会が復活したのは東日本大震災が起きた2011年の夏だった。いわき市北部に位置する久之浜地区は、地震と津波、そして津波によって引き起こされた火災で町の中心部が破壊され、多くの住民が犠牲となった。のみならず、原発事故の影響で町のすべての住民が避難生活を余儀なくされた。住民がいなくなった町では窃盗団も横行。人々は自分たちの町を「五重苦の町」と嘆いた。

原発事故の影響は30km離れたこの町に深い影を残した。とくに子どものいる家庭では、町を離れる人も少なくなかった。県外に避難した人も多い。健康に影響があるのかどうか、不確かな情報しかなかったため、町の人たちの考えも割れてしまった。

「どうして子どもたちを避難させないのか」という意見。「なぜ愛する町を出て行くのか」という主張——

それまで親友だったのに、原発事故からの避難に関しては激しく意見が対立してしまうことを悲しむ人もいた。

久之浜で何十年ぶりとなる(町の人たちの記憶も定かでないほど昔のことだったらしい)打ち上げ花火の復活は、離ればなれになった人々が再会する場所と機会をつくりたいという切実な思いによるものだった。

それから5年。今年の花火は、これまで会場だった町の中心部から漁港に移されて開催される。

久之浜漁港は、久之浜の町の象徴でもある殿上山と高台に囲まれたシチュエーション。太平洋に突き出した防波堤から打ち上げられた花火は、山に囲まれた漁港にこだまして、これまでにない迫力に満ちたものとなるだろう。

鎮魂と復興の祈りの夏祭りが今年も始まる。

東松島「鳴瀬流灯花火大会」

鳴瀬川の灯籠流しの歴史は古く、江戸時代天保の大飢饉の頃に遡るという。上流から流されてきた数多くの餓死者の遺体。その慰霊のために流灯が行われたのがはじまりだとか。

その後、大正時代には花火大会も行われるようになる。近年では芸能ショーを中心とする前夜祭や、小学生の鼓笛隊やお祭りパレードも行われる華やかな祭りになり、宮城県でも人気の花火大会に成長していた。

鳴瀬川流域は東日本大震災で大きな被害を受けた。津波は数えきれないほどの悲劇をもたらした。海の物、町の物、ありとあらゆる物が町を埋め尽くした。がれきと呼ばれるその物たちは、かつては人々の暮らしとともにあった品々だった。そしてそれらの間から、幾人も幾人ものご遺体が見つかっていく。生き延びた人々の運命も過酷だった。避難所の運営、仮設住宅や復興住宅の建設など、震災への対応で評価の高い東松島市にあっても、人々の苦しみそのものが消えたわけではない。流灯花火大会が行われる小野は、仮設住宅に暮らす人たちが支援の衣類を使って生み出したぬいぐるみ「おのくん」のふるさとでもある。

鎮魂と復興への祈りをこめて行われる流灯花火大会。打ち上げられる約1,000発という大量の花火は、町の復活への歩みとこだまする力強い響きを聞かせてくれるに違いない。

震災の年の開催休止をバネに燃え上がる気仙沼みなとまつり

東北の風と書いて「ならい」と訓むらしい

東北の風、あるいは北東の風と書いて「ならい」と訓むらしい。冬の冷たい強風を意味する古語なのだという。気仙川の河原に立つ1本の木は、津波という厳しいならいに堪え、傷つきながらも命をつないでいる。仲間の死をも乗り越えて。この木の雄々しさ、しなやかな強さにちなみ、この連載記事を「週刊・東北の風の道」と名づけました。以後よろしくお願いします。