ツアー終了後、ホテルをチェックアウトし、ツアーで回った場所の中で、自分が余り知らなかった所を中心におさらい的に再度回ってみた。ホテルの語り部バスツアーは、冬期ということで防災総合庁舎以外はバスから降りることなく車中から周辺の状況を見るという形だったが、どうしても自分の足で歩き回ってみたっかたのが、南三陸町南部の戸倉中学校。高台にありながら、かつ避難場所として設定されていながら多くの犠牲者を出すことになったこの場所の記憶を忘れてはならないと強く思った。
戸倉中学校からは、ひたすら南下して大川小学校、雄勝の町を経由して女川町を目指す。
目指した先の女川町では、新しい駅前商店街で石巻日日新聞社社長の近江さん、ダンボルギーニの今野さん、ダイビングショップの高橋さん、そして観光協会のYさんらと町の今と未来についての話を聞かせてもらった。すごいオフレコの話ばかりたくさん聞かせてもらって、どうしたらいいのかと悩ましいことしきり。とにかく女川は、周辺の石巻地域までを含めて、「起爆剤」としての役割を果たしつつあるらしいことがビシビシ伝わってきた。
明らかに、女川は復興のひとつのモデルとして、周辺の地域にさまざまな刺激を与える存在になっている。適切ではないかもしれないが、駅前周辺に限れば、いま女川は輝いている。この輝きがどのような形で周辺地域に広がっていくか。女川、そして石巻地域の課題のひとつであることは間違いない。
この日は石巻まで移動しておいしいご飯を食べて、、、との目論見があったのだが、石巻の友人たちはイベントやお祭りの準備期間とのことで忙しく、さらに猛烈な寒波に見舞われた日でもあったので、とてもじゃないが夜の町を出歩こうという気持ちにはなれず、石巻エリアの地元スーパー「うじえ」で地元の食材を買い込んで、懐かしい宿、村田屋旅館へ転がり込んだのであった。
5日目(1月13日)
村田屋旅館は石巻駅の南東、徒歩7分ほどの場所にある古くからの旅館。震災当時は北と南から津波の濁流が迫って来たというが、なぜか両三軒向こうあたりで津波が届かなかったという場所なのだとか。震災から2年後くらいか、初めて村田屋さんに泊まったとき、宿の奥さんはそんな話を何度も繰り返して話してくれたのだけど、いまはそんな話をすることはめっきり減った。
最近では、朝食としては皿数も豊富で、お腹いっぱいになっちゃうよって感じの朝食をいただきながら、テレビニュースや朝ドラをご一緒させてもらいつつ、何とももうごく普通の会話をさせていただいている。
おたく、九州だって言ってましたよね。この山芋はね、四国の土佐の常連さんが昨日送って来てくれたの。色白で、手の平みたいな形のお芋でね、ご存知かしら、粘りがもうすごいの。
たしかにとっても美味しい山芋だった。でも、四国と九州を一緒にされてもなぁなどとちょっとだけ思いつつ、覚えてもらえていたことが嬉しくて、ほんと、山芋の話何てとるに足らない話題なのかもしれないけど、この宿を大好きだと思って産物を送ってくるくらいのファンがいることや、こちらの出身地を覚えてもらったこととか、いろんなことがないまぜになると、
「うちはね、北と南から津波が来たけど、奇跡的に数軒先で止まったのよ」という話が、別の意味合いをもって輝いてくる。
そんな旅荘を知り得た奇跡を感じさえする。
さて、この日の行程もかなりハードである。石巻周辺の知り合いにできるだけ会って、今現在の状況についてお話を伺う。心の中で予定していた若者数人から、夜じゃダメ? との知らせがあった。夜には気仙沼にいなければならないから無理である。ごめんと伝えると、こちらこそ申し訳ない。次回は是非と返事が来る。
もともと予定を入れていた大御所的な人もいるから大丈夫、と思ったら行政とのミーティングが急に入っていつ終わるか分からないとの連絡が時差攻撃で入ってくる。
参った。でもこれは復興に向けての動きがようやく加速され始めたことの証、と納得しようと北上川の写真を撮っていたら、「役場は帰ったから、いつでもいいよ」と連絡をもらう。
ただ、この日聞いた話のほぼ全てがオフレコだった。土地の施設をどうするかとか、利益分配とか、利益じゃなくて責任の分配とか、解決までに時間がかかりそうな問題がたくさんある。
仮設商店街の運用期限を今年の秋まで延ばすことはできたものの、その先の見通しは「ない」とする商店が大半だ。それでも再開を目指す。行政の方針だから仕方がないという意識ではない。自分たちで新しい町をつくらなければ、都会の資本や行政の力で、「誰も住まない町」が再生産しかねない。それを止めなければ。
敬愛する先輩は「ぜったいオフレコだかんね」と言いつつ、そんな言葉を語ってくれた。
5日目の予定はまだまだ続く。なにせ、気仙沼に実家がある大学教授のKさん宅にお呼ばれする予定だったからだ。しかし、気仙沼に向かう途中でどうしてもやっておきたいことがあった。それは、女川中学の生徒たちが、千年後の人たちに津波の危険と避難を呼びかけるために建立した石碑をできるだけたくさん実地に見ておきたい、ということだ。
女川の観光協会が作成したパンフレットには、半年ほど前までに建てられた石碑のデータが掲載されはしている。しかし、かさ上げ工事や再開発が進められている女川周辺の地域では、過去には通路があったとか、昔は分かりやすい場所だったというエリア、つまり慰霊碑が建立された場所へのアクセスが非常に困難だったり、不可能だったりもする。
だからこそ、できるだけ「マップをつくりたい」という思いは強く、気仙沼への帰路、女川中学の生徒たちが思いの丈を注いだ慰霊碑を見て回ることにした。気仙沼に着いた時にはとうに日が暮れていた。
それでもK先生は心良く迎えてくれた。K先生の奥さんは「心配したのよ」と笑って迎えてくれた。お鍋とお酒の夜になった。
6日目(1月14日)
K先生の実家は昔ながらの日本家屋で、おそらく原型が築かれたのは明治の頃ではないか。たぶん建て増しされたであろう二階の床の間付きの座敷も、様々な装飾品が時代の流れを伝えている。
キーンと寒い夜明け、トイレに立つ。まるで迷路のような廊下はほぼ書庫を兼ねている。廊下の角々で積み上げられた書籍の書名をカギに階下のトイレへの道をたどる。そんな経験がなんだかなつかしくて好ましかった。しかも、朝食時ともなると、そんな廊下の小さな窓の向こうから、朝の太陽が昇ってくるのである。
朝の散歩で先生に家のまわりを歩いて、震災のこと、そしてさらにもっと昔からの家の歴史についていっぱい話を聞かせてもらう。敷地ぎりぎりまで迫った津波。ぎりぎりで守られた歴史的な建築でもある住居。すべてをないまぜにして語る先生の言葉は、時折どう対処したらいいのか分からなくなった。
奥さん手作りの朝食を美味しくいただいて、でもその後も近所の海岸線とか、土地を貸している家々のこととか、鎌倉時代から続くという街道の両脇に、まさに街道を埋めようとしているかのような竹林のこととか、ぶらぶら歩きしていたら、早くもお昼近くになる。
今日はK教授も深く関わった南三陸町の田ノ浦地域の案内をしていただくのがメインイベントだった。その件、詳しくは別記事で紹介したい。
しかし、K教授の案内は田ノ浦地域に留まらなかった。最終的には南三陸町の歌津と志津川の境目あたりまで、いろいろと教えていただいた。さらに気仙沼方面に戻って、九州から移住して活動している大学院生のTさんや、地域の方々などを紹介してもらったりもした。
ガイド? なんて言葉が失礼に当たるほど、K教授にお世話になった。その晩もK教授の家に泊めていただき、地元の食材をふんだんに使った奥さんの美味しい料理をいただくことになった。
7日目(1月15日)
もともとの計画では、最後の活動日のはずだったのだが、K教授の饗応、そしてクルマを貸してもらったHさんのご好意に甘えて、日程を延長する。
お世話になってばかりのK教授のお宅を、早朝に退出して北へ向かう。もう一泊でも二泊でもして、もっともっとたくさんお話を伺いたいところだった。苦渋の決断だった。
とはいえ北への道は短くはない。東北の沿岸部はだいたい20〜30キロおきに大きな町がある。気仙沼、陸前高田、大船渡、ちょっと間があいて釜石、大槌、山田、宮古。道中の町々はいずれも立ち寄っていきたい場所。あちこち寄り道しているうちに大槌町ですでに夕暮れ時に。
当初予定では宮古泊だったのを、手前の山田町に変更していたのは大正解だった。三陸沿岸の町を巡って泊めてもらった宿は、船宿「海太郎」。震災前からずっと海のアトラクションの基地として、また魚料理のおいしい宿として運営されていた宿だった。もちろん晩ご飯は絶品。山田湾で獲れた大きな牡蠣のカキフライは絶品。あえてフライにするだけのことがあるとジュワジュワブシューと食べながら了解した。