ヒロシマからの道「火の球」

これまで何回かに渡って紹介してきた原爆被害者の遺品が並ぶ展示の中央には、被爆した直後の町を復元したジオラマ模型が展示されています。展示の名称は「破壊された広島市街地の模型パノラマ」。

原爆によってなぎ倒され、焼け野原にされた町の中央に浮かぶ赤い玉は、原爆の火球を示すものです。火球の下にいくつかの建物が残されているのは、真上に近い方向から爆発のエネルギーが伝わったせいで、なぎ倒されなかった建物があったことを示します。原爆ドームもそんな建物のひとつでした。

たしかにそんな科学的な見地からの説明も必要ではありますが、遠い視点から理屈を語るだけではこぼれ落ちてしまう大切なことがあるのは言うまでもありません。何百分の一に縮小して再現された町で、現実に起きたことを忘れることはできません。

「破壊された広島市街地の模型パノラマ」には下の説明板が設置されています。

直接被爆者 Direct Victim

1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾がさく裂したとき、広島にいた人たちを直接被爆者といい、その数は35万人前後と考えられています。この直接被爆者のなかには、数万人にのぼる朝鮮の人たちが含まれていました。この人たちは日本国内の労働力の不足を補うため、朝鮮から強制的に徴用され、軍需工場などで働いていた労働者とその家族の人たちなどです。そのほか、中国・東南アジアからの留学生やアメリカ軍の捕虜などの外国人も含まれていました。

引用元:平和記念資料館のキャプション

原爆の苛烈な火球は、広島に暮らしていた日本国籍の人たちだけではなく、朝鮮から徴用されてきた人々やその家族たち、アジア各地からの留学生、さらに米軍の捕虜たちをも地獄の苦しみに突き落としたのです。