南海地震の発生から69年。終戦直後だったこともあり、南海地震は残された記録や資料が極めて少ない震災といわれます。そんな南海地震の直後、ふるさとの町の状況を写真に収め、子孫に記録と記憶を伝えて行こうとした方がいらっしゃいました。
高知県須崎市で写真館を営んでいた竹下増次郎さんがその人です。物資が乏しい中、万難を排して撮影・編纂された「南海大震災記録写真帖」を紹介させていただきます。画像のデータはボランティア仲間である知人から借り受けたもの。現在竹下写真館を営まれている竹下雅典さんのご諒解をいただいた上での公開です。
今回は住宅地の被害写真が中心です。写真の解説文には「死者三名出す」といった言葉も記されています。終戦から1年4カ月、日本全土が復興に向けて立ち上がろうとしていた矢先に、大震災によって破壊されたふるさとの町で、竹下さんはそんな思いでシャッターを切ったのでしょうか。当時の状況を想像しながらご覧いただけると幸いです。
※写真帖に記載された文章は、難解な漢字を平仮名等に改め、一部句読点を補うかたちで引用文(囲み付きの文章)として掲載します。
※写真を別ウィンドウで開いていただくと、拡大して表示できます。
(上)南横町、吉村佐吉氏の家屋倒壊。二階建てなりしが階下が倒れて一階建ての如くなる(死者三名出す)
(中)南古市町通りの被害惨状
遠方高き家が警防会館
(下)青木ノ辻 井元金物店付近の被害惨状
階下の柱ことごとく折れ、まさに倒れんとする三浦控家
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(右)浜町 市川道馬氏の家屋倒壊(死者三名出す)
(下)浜町 田井氏の家屋倒壊
(左)沖町 松岡醤油工場倉庫倒壊に瀕す
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(右)津波が集めた須崎駅前の混雑
(左)堀川通りの地割れ(幅尺~二尺・深さ二三尺くらい)
地割れはこのほか鍛治橋より東方百メートル及び旧桟橋五十メートル船入場付近に数ケ所
(下)津波に押し流された巨木はかくの如く容赦なく、家を倒し、家財を流し、人を殺したのである
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)須崎八幡宮の玉が気倒壊
明治三十三年八月建立し、高知県下の玉垣中屈指の名作と云われた須崎名所の一つに数えられし美術的有名なりし玉垣も、かの大地震のために無惨に倒れ、しかも修繕不可能までに粉砕されたのは、誠に惜しいことである
(玉垣:神社の周囲にめぐらされた主に石造りの垣)
(右)中町通り梅原氏付近の被害状況
(左)横町通り森岡清氏の控家は巨材の建物であったが遂に倒壊した。しかし家族不在の場合で不幸中の幸いであった
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)須崎造船会社の二階立建物は大地震にひとたまりもなく倒壊し、間もなく襲来した津波に跡形もなくなったのである(野田歯科の壁は津波の跡)
(右)下浜町付近の惨状
津波の跡、実に手のつけられない状況である
(左)地震に倒壊した浜町、橋田氏の家屋
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)南横町、山中氏の家屋倒壊(死者一名出す)
(右)須崎駅構内にて浸水した客車。客車に白線のあるのは浸水の程度、波の跡なり
(左)鍛治橋
津波のため押し込まれた鍛治橋畔の小舟の山、この橋は津波の際沈下したが、コンクリート造りゆえ流れず。無数の漁船、木材等はこの橋にせき止められたのである
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)津波による多ノ郷村野見浦の惨状(その一)
(下)津波による多ノ郷村野見浦の惨状(その二)
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)津波に押し流された県造船ならびに営林署の木材は、多ノ郷村の至る所に散乱した。ここは大同池付近の惨状
(下)家もまた山積みしてあった木材も流失して、歯抜けのようになった大間付近の惨状
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)大間の埋め立て地にあった元県造船会社の工場建物は、津波に押し流され海になった。大間池にその残骸を止めている
(下)元県造船会社の建物の大部分は津波にさらわれ、わずかに数軒を残してあたかも平野の如くなった
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)大海と化した多ノ郷村大間付近の良田(その一)
津波のため流れ込んだ機帆船は破砕せる鉄道の近くに悠々碇泊の状態(土崎山より展望)
(下)大海と化した多ノ郷村大間付近(その二)
シヤク丈越阪より大間橋間は、道路沈下のため汽車、バス等の乗客はことごとく渡船をもって連絡せり(この付近は元本村の上田地帯なり。前方の建物は第一国民学校)
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)工事中の実況(その一)
四国鉄道須崎より土崎間の線路は無惨に破砕され、しかも大海と化したので、渡船をもって連絡するかたわら、四国鉄道局においては復旧に全力を傾注し応急工事を施し、わずか三ケ月をもって開通することができたのである
(下)工事中の実況(その二)
酷寒を物ともせずステージングを行う村の乙女達
(ステージング:地固め作業)
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(上)今回の大地震にて田畑数十町歩が海となり、海浜にありし製塩小屋数棟はことごとく流失し、死者三名を出せり。遥か高バエ山に白線の如く見ゆるは、地震のために崩れたるところ。その右は長者ノ山
(1町歩は約1ha)
(下)昭和二十二年一月八日、天皇陛下の御名代として御慰問のため賀陽宮殿下を御差遣になり、被害の状況を親しく御視察なされた際、新桟橋付近にて記念撮影せるものなり(向かって左端オーバー着が宮様)
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
(右)宝永津波溺死の塚
須崎町大善寺山の麓にあり。安政三年丙辰十月四日建立のもの(記事参照)
(左)オ伊勢ノ松
(須崎町北横町にありしが、昭和二十二年五月枯死伐採す。記事参照)
(左)宝永四年丁亥十月四日の大地震の際の津波のため溺死せる物のことごとく、この池に流れ込み、筏を組し如くなりしという由緒の池
昔は池の周囲一里余りありしが、次第に田を作りて縮小し、今はその五分の一に過ぎず。この池は昔より鯉フナボラ鰻等たくさん生息し、年中遊漁者の絶ゆることなし
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
南海大震災写真帖は次のページから竹下さんが調べ上げた記事のページになります。地震の状況、経験された人たちの話、統計データなどが記された後、話題は安政地震、宝永地震、古老の話へ、さらに震災対策と移っていきます。記されているのは、風化させてはならないという強い決意です。
次回は、竹下さんによる記事ページをお届けする予定ですが、写真帖の末尾に記された「良い教訓」と題された1ブロックを先取りして紹介し、今回の締め括りとします。
●良い教訓(アメリカ新聞記者の談)
伊太利のナポリ湾あたりを旅行した人達の話に、ヴェスヴイアス山(有名な休火山)麓のイタリー農民が火山の脅威下にありながら、併記で暮らしているのにあきれる。
彼等はヴェスヴイアス山が死火山でないことを百も承知しており、いつ爆発するかも知れず。一旦爆発すれば家はこわされ生命もなくなることをよく心得ているのだ。
しかも永い間こういう危険の中に暮らしているとなれっこになり、あまり心易くなって無関心になってしまう。「昨日起こらなかったことは今日も起こるまい、と独りぎめにしているのだ」とこれと同じように我が須崎兆民は地震体の上に起居しながら今まであまり無関心であったからである。
他山視してはならない。私は敢えて町民諸君に訴うるとともに、このアルバムを後世子孫に伝え残し、次にくるべき大震災対策の為に、我が須崎町民は元より、県下同胞全体の人々がいささか利するところあらば欣幸と致します。
引用元:「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
◆ご協力いただいた竹下写真館の竹下雅典さんに重ねて感謝の意を表します。
【竹下写真館】
高知県須崎市東古市町4-23
TEL:0889-42-0066
営業時間 8:30~18:00
定休日:日曜日
写真帖の序文には、「今回の大震災を経験せられたる南海の同胞諸賢よ、是非この一冊を所有して子孫に伝えられんことを」と記されています。地震被害が繰り返されないために記憶の風化を喰いとめようとされた竹下さんの思いが伝わってきます。