浦宿からの坂道を下りながら女川の町を目にした時、軽はずみにも「廃墟」という言葉を思い浮かべていた。
女川町立病院の駐車場から初めて江島共済会館を目にした時の衝撃は忘れようがない。最初にこのビルを見た時には、自分の目か頭がどうかしてしまったのかとさえ思ったほどだった。ビルの壁面に取り付けられた非常階段や窓の位置を確認しながら、4階建てのビルが横倒しになっていることや、建物が倒された向きについて、まるでパズルを組み合わせるようなもどかしさの中で理解していったのを憶えている。状況が呑み込めていくにつれて、言葉に表しようのない恐ろしさが湧きあがってきた。
辺りを見渡すと、女川の町にはまだたくさんのガレキが残されていた。ガレキ集積場へ向かうダンプカーは引きも切らずに走り回っていたが、いくら運んでも追いつかない状況だった。坂道からざっと見渡しただけで、軽率にも思い浮かべた「廃墟」という単語が、実は何も言い表していない事に気がついた。
女川で被災した知人が、津波の後の町の様子を「まるで爆心地」と言っていたのを思い出す。大量のガレキが残る町なかに横倒しになったビルは、彼の話を実感としてそのまま伝えてくるものだった。この町で起きてしまった事。そしてそれを自分がどこまでいっても理解できないだろうという事。
それは言葉をこえたもの。ただ、いまそこにある存在として迫ってくるもの。その光景を目の前にしている自分が、倒れたままのビルの上を流れていくのと同じ時間の中にいるという事実を通してしか、感じることができないもの。
自分にとってこのビルは、津波被害の残酷さのひとつのシンボルだったのだと思う。まさに負の遺産。しかし、その負=マイナスが失われていくことで心が乱されてしまうのはなぜだろうか。
津波を身をもって経験した人たちにとって、町に残された負の遺産は心の中のマイナスにさらにマイナスを重ねていく辛いものだろう。それに、負の遺産分のマイナスが無くなったとしても、震災そのもののマイナスが全て消えてしまうわけではない。
震災の恐ろしさや辛さを我が身で感じていない自分は、撤去されることそのこと自体に喪失を感じてしまう。この喪失感は、「これでタガが外れて、風化が一気に進んでしまうのではないか」という、別の恐れにつながっているのかもしれない。
今と未来と、負の遺産
マイナスにマイナスを重ね続けるような存在だったこのビルが撤去され、町づくりの一歩となるかさ上げ工事が進んでいくのなら、そのことで少しでも町が負った傷がいやされていくのなら、このビルの撤去は良いことに違いないだろう。
負の遺産がこれまで果たしてきた役割は、津波に備えることをしなければ、たいへんな悲劇を招くことを身をもって示し続けてきたことだ。
このビルを目にし、衝撃を受け、心に焼き付けてしまった私たちは、これまで江島共済会館が果たしてきたことを肩代わりして、伝えていく仕事をずっと続けていかなければならない。
震災を風化させないため。
二度と同じような悲劇を起こさないため。そして、
ビルの解体撤去が女川の町のために「ほんとうに良かったこと」となるように。