【終戦70年】ガ島の夜光虫、哀しき「ケ号作戦」

昭和18年2月8日、連合艦隊司令長官山元五十六大将は、ガダルカナル島からの撤退作戦を行った部隊に対して次のような「お褒めの言葉」を贈った。

『ガ』島上陸部隊を余すことなく海軍艦艇に収容するの成果を挙げ得たることは、帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せるものと言う可く(云々)

(原文はカタカナ)

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

しかし、帝国海軍の伝統を発揮したとされるこの作戦、ことに陸上部隊の兵員を退避する船に引き上げるときの実情は次のようなものだったらしい。

上甲板に人員を揚げるのが大変だ。なにしろ自力で道板やネットを伝って登る体力が残っていないのである。

ネットに足をかけ手で握っても、握力がないため、ドボン、ドボンと海中に落ちこむ。そのまままるで金物でも落としたように一度も浮かんで来ない。海面にはただキラ、キラと夜光虫が光り、漂っているのみである。

せっかく艦側まで辿りつきなながら、いま一息というところで、このようにして死んでいった者が何人いたことだろうか。そして、その胸中は如何だったであろうか。

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

ニューギニアの東、珊瑚海をはさみオーストラリアに向かい合っているソロモン諸島。そのほぼ東の端にガダルカナル島は位置する。通称として連合艦隊司令長官の賞訓でも使われている「ガ島」は、「餓島」とも当て字された島。太平洋戦争で日本の勢力範囲が最も伸び切った場所であり、何度かにわたって軍隊を送り込んだものの、その後の補給がうまく行かず、戦争の前には名前すら聞いたことのないような南の小さな島で、日本兵は飢餓や病気によって次々と斃れていった。

この島での戦闘が本格化して約半年、絶望的な戦局から撤退が検討されるが、すでに空も海も米軍に支配されている状況で足の遅い輸送船は使えない。そのため、積載量は少ないものの、高速でわずかながらも対空戦闘能力を持った駆逐艦を連ねて、「餓島」に残された生存兵を救出しようと作戦を企画した。それが「ケ号作戦」である。

これを軍部は撤退ではなく「転進」と呼んだ。負けたのではなく、次なる決戦の場を求めて進軍するという詭弁に他ならない。

そんな転進に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮したとされる作戦の実態が、「ネットに足をかけ手で握っても、握力がないため、ドボン、ドボンと海中に落ちこむ。そのまままるで金物でも落としたように一度も浮かんで来ない。海面にはただキラ、キラと夜光虫が光り、漂っているのみ(前掲)」なのである。

これが、戦争というものなのだろう。自分は戦争を知らないが、このような悲惨な事態となったことは、何となく理解できる。それは金物でも落としたように浮かび上がることもなく、ただ南の海に夜光虫の光を灯させて死んでいった多くの人たちと同じ日本の人間だからなのかもしれない。

戦力の逐次投入が敗因とされるが

せっかく救助の船の舷側まで辿りつきながら、そこで力尽きていくという悲劇。数多くの戦記物を記した小説家・豊田穣「雪風ハ沈マズ」から、この惨事の部分を引用して戦争について考えたいと思う。ただその前に、なぜガダルカナル島の戦いが起きたのか、アウトラインを記しておく。

この島に最初に軍を送ったのは日本の方だった。目的は島に飛行場をつくる事。飛行場があれば、島から半径数百キロの圏内で、敵の海上輸送や航空作戦の制圧を企図することが可能になる。珊瑚海に面したこの海域は、アメリカとオーストラリアを結ぶシーレーン。ここを抑えることで米豪分離を図るというのが、ガ島に飛行場を建設する目的だった。

昭和17年の初夏、飛行場建設のために送り込まれたのは1,000人規模。1学年10クラスの高校ひとつくらいの人数といえば分かりやすいだろうか。

その人々が飛行場を建設する島の上空を守るべき最寄りの航空拠点は、ソロモン諸島の西、ニューブリテン島のラバウルで、なんと1,000キロも離れていた。東京から九州くらいの距離だ。これだけ離れていると、長大な航続距離を誇る零戦でも往復に燃料を喰われてしまうのでガ島上空で戦える時間はごく限られたものになる。

しかし、日本の軍部はガ島に飛行場を建設できると踏んでいた。「敵の本格的な反攻作戦が開始されるのは昭和18年以降」と考えていたからだ。しかし、アニハカランや昭和17年8月7日に米軍はガ島への上陸作戦を開始した。

日本軍はガ島救援のため、まずはグアムにいた一木支隊を派遣する。一木清直大佐(大佐は大企業や官庁の部長くらいの階級か)率いるこの部隊は、ミッドウェー島占領部隊として第七師団(師団とは陸軍で作戦行動を行う基本的な単位で人員は約1万人)から分けられたもので、兵力は大きくなかった。米軍は最初に一個師団、続いて四個師団を投入していたが、日本の軍部は「敵の反攻は昭和18年以降」という希望的観測に呪縛され、「ガ島に上陸した敵は、強行偵察程度の小部隊」と判断した。

蓋をあけてみたら、師団から分派した小部隊(2千数百人規模)と四個師団の大部隊が激突という状況になった。一木支隊は敗北。続いて一木支隊の約2倍の兵力で川口支隊(4千人程度)が送り込まれるが、やはり敗退。ようやく師団規模の兵力を投入しようとするが、輸送船団が米軍機によって沈められてしまう。すでに上陸していた兵力への補給すらままならないほど、米軍による空と海の支配は強まっていたのだ。その後、二個師団増派の計画もあったが17年の年末に転進の方針が決定された。

これがよく言われる「兵力の逐次投入」だ。この言葉は、平成の時代になってからも国会で財政出動が議論になる際などにしばしば使われる。最初からどーんと大量投入すれば勝てたのに、出し惜しみをしているうちに状況が悪化してしまうという例えとして使われることが多いようだ。

しかし、問題は兵力をケチったということではない。一木清直大佐をはじめ、逐次投入された部隊の指揮官は、ガ島の米軍を追い払うのみならず、隣の島まで占領すると豪語していたというのだから。問題はむしろ敵の兵力をちゃんと調べようとしなかったことにある。「反攻は18年以降」というドグマにとらわれて、「勝てるに違いない」と送り出した兵への補給すらままならず、ガ島を飢餓の島にしてしまったことにこそ敗因は求めなければならない。

「大丈夫だろう」と突っ込んでいくものの、結局はうまくいかずにリソースの逐次投入を繰り返すのは、現在でもさまざまな場面で見い出せる。当初予算を結果的にはるかに超過してしまう公共工事はざらだし、計画の10倍以上の費用を投じても完成どころか運転すらままならないことで有名な原子力施設もある。なにも大きな事業の話ばかりではない。会社での予算どりでも、親子ゲンカでも、交通違反でも、「たぶん何とかなるだろう」と考えて失敗することは珍しくもなんともない。日本人にとっては、何かにチャレンジする時には「たぶん…」と楽観的に考えてしまうのが癖とか文化とかになっているのではなかろうか。

太平洋戦争の中で、ガ島以降も「たぶん…」は繰り返され、そして日本は敗戦した。もちろん「自分に都合のいいように考える癖さえ治せば勝てたかもしれない」なんてことを言っているのではない。自分に都合のいいように考えたことを、自分自身がドグマとして信じ込んでしまうような指導者たちによって「これしかない」とつくられた作戦の結果、たくさんの命が夜光虫が仄かに光る海で死んでいったことを考えてほしいのだ。

以下、豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」から、ケ号作戦に該当する部分を引用してご紹介する。

海岸に近くなると、何とも言いようのないような臭いが鼻をつく

この間の消息は、大西喬兵曹の日記に詳しいので、引用させてもらうことにする。

▽出撃
2月1日 晴 於ショートランド泊地
(中略)
太陽は早くも水平線に没し、南国の海は急速に夜のとばりにつつまれた。

予定通り闇黒のカミンボ泊地進入である。(この日、雲量三、月例二十五・六)艦は速力をおとし、静かな海面をすべるがごとく航進する。艦のまわりには、夜光虫が青白い光を発し、じつに無気味である。


▽救出成功
左舷に、カミンボの陸地が闇の中に視認される。星が美しい。しかし、明るすぎて発見されやすい心配がある。

艦はまったく停止仮泊の状態となる。静粛に、しかも迅速に作業が開始される。

するすると小発がダビットより海上におろされ、曳航の大発は曳航索が解かれ舷側に着く。陸軍の艇長および艇員は乗艇して、艦長の命令を待っている。

艦上では、作業員が大きなネットを左舷側に吊り下げて、撤退してきた陸兵が登りやすいようにする。また道板(長い板に横木を打ち付けたもの)を三段に組み、これもネットと並んで吊り下げる。

艦橋見張員は、入口付近の敵魚雷艇と、上空見張りに緊張し、主砲、機銃は、湾口とカミンボ方向に指向し、敵艦の襲撃に備えている。

大発要員の私は、懐中電灯に赤い布を巻いて肩にかけ、メガホンを右手にして、左手で腹に巻いた晒の中の短刀菊一文字を上からそっと押え、乗艇の後、発進の命を待つ。

やがて艦長の「発進」の命令一下、一斉に発進する。

落ちこむような静寂の中に、収容艇はエンジンの音と青白い夜光虫のウエーキを残して艦を去る。

艦の所在を確かめるためにふり返ったが、各艦の所在はまったく認められない。よほど近くでないと標示灯は見えないのだ。

(中略)

海岸に近くなると、何とも言いようのないような臭いが鼻をつく。これが屍臭というのだろうか。艇尾から錨を入れさせ、錨索をのばしながら、ざざっと浜に乗り上げ、夜光虫の砕ける海にとび降りた。

きれいな砂浜である。靴が砂にめりこみ、海水が中にしみこんでくる。靴と足首には夜光虫が付着して青白く光り、ここだけは夢幻的に美しい。豆粒くらいの夜光虫の塊が、波に押されて渚をころげ回っている。

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

文中にある小発は小発動艇、大発は大小発動艇。それぞれ日本軍が開発した上陸用舟艇で、大発は世界に先駆けて船首が縦に開いて道板になる構造だった。駆逐艦では海岸に直接接岸できないため、小発はダビット(艦船でボートを懸垂して搭載する設備)に、大発は曳航していたことがわかる。

それにしても、島に近づくだけで死臭が感じられるとは。

驚いたことに小銃を持っている者は一人もいない

闇の中の樹木がぐっと眼前に迫ってくるが、誰も出て来ない。われわれ友軍が来たのがわからないのだろうか。それとも、歩いて出てくる元気もないのだろうか。

ヤシ林の葉のそよぎにも瞳を凝らしながら、一歩一歩、前進するが、人の気配が感じられない。カミンボはすでに撤退ずみなのであろうか。

メガホンで、
「オーイ!」と呼んでみると、闇の中に人の気配がして、一人が出て来た。その後ろに二、三名つづいている。

戦闘の一人は肩から白いタスキ状のものをかけた陸軍の高級将校である。

「お迎えに参りました」
というと、
「有難う」
と言ってゆっくり後退する。元気がない。こんな調子でゆっくりやられては、今晩中に三往復もできないと考え、
「早く乗艇して下さい!」
と、つい大きな声を出した。

彼らにしてみれば、乗艇区分は、第一回、第二回と準備してあるのだろうけれど、なにしろ急を要するので、さらにメガホンで、
「早くしろ、早くしろ」
とせきたてる。早く帰路につかないと朝の空襲で被害が出ることはわかり切っている。

しかし、長い月日の飢餓のため、まともに歩ける者はほとんどいない。ぞろぞろと甲虫か亀のように這い出てくる姿は、この世のものとも思われない。

驚いたことに小銃を持っている者は一人もいない。数里の山奥から、ふらふらになりながら、栄養失調の者は、ばたばたと途中で倒れ、海岸に辿りつく力もなく置き去られたのであろうか。そして負傷者は、すべてを諦め、各自それぞれに自決したのであろう。
幸いに生ある者のみが、こうして撤退地点に辿りつくことができたのである。彼らののろい動作と不気味な沈黙には、深い意味がひそめられているようだ。
命より大切なはずの武器まで捨てて来た彼らの心中を思うとき、目頭が熱くなってくる。

しかし、いまはそんな感傷にとらわれている場合ではない。一刻も早く乗艇させなければ、と気合を入れることにする。

助かると思う安心感が出たせいか、ぐったりしていて非常に動作がのろい。メガホンで、ポン、ポンと背中を引っぱたきながら、
「元気を出すんだ、元気を」
と励まし、艇員とともに、一人ずつ手や体を支え、艇内に引き入れる。

艇内の整理も大変である。部隊としての統制も何もないから、整理のしようがないのだ。身動きできぬ満員の艇を浜から押し出すのに、また一苦労する。

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

撤退のための集合場所に着く前に、小銃(ライフル)を土に埋めてたという話は、ガダルカナル島から生還した人たちの証言によく見られる。ライフルを廃棄する前にも、ほとんど杖の代わりとしてしか使っていなかったともいう。

当時は歩兵の銃器にいたるまで、国家あるいは天皇から下賜されたものとされていた中で、ライフルを捨てるということが持っている意味は、現代を生きる自分たちには容易には想像しがたいものだということを考えてもらいたい。

ただキラ、キラと夜光虫が光り、漂っているのみ

兵隊をようやく輸送艇に乗せて発進したものの、敵の攻撃に備えて灯火管制を敷いているため、自分たちの乗ってきた駆逐艦がどこにいるのか分からない。そうとう苦労した挙句、ようやくたどり着いた母艦「雪風」の舷側で悲劇は起こる。

しかし、こんどは艇内から上甲板に人員を揚げるのが大変だ。なにしろ自力で道板やネットを伝って登る体力が残っていないのである。

ネットに足をかけ手で握っても、握力がないため、ドボン、ドボンと海中に落ちこむ。そのまままるで金物でも落としたように一度も浮かんで来ない。海面にはただキラ、キラと夜光虫が光り、漂っているのみである。

せっかく艦側まで辿りつきなながら、いま一息というところで、このようにして死んでいった者が何人いたことだろうか。そして、その胸中は如何だったであろうか。

そうかといって、戦闘配置についている艦の乗員が、彼らを甲板に収容する作業に従事することはできないことなのだ。

もう一往復で今夜の作業が終わるというころ、夜空に敵機の爆音を聞く。みな星空を睨んで飛行機を確かめる。
やがてスウーと流星のような光が夜空に流れたかと思うと、パアッと吊光投弾(照明弾)が上空に浮かび、ユラユラと強烈な光が一瞬にして下界を真昼のように照らし出す。瞬間身を縮めるが、まだかなり離れている。

二個、三個と光がつづく。いまいましい限りである。
遠いので今のところ安心だが、次第にこちらに近く投下してくるかも知れぬ。一時は各艦撤収停止かと緊張したのであった。

その後、幸運にも敵に発見されず、敵機も遠ざかり、また敵艦艇にも妨害されずに、第一次撤収は成功したのだ。

一方、エスペランスの方では、敵魚雷艇と交戦し、二隻を撃沈したとの報に接する。

本艦から小発の艇指揮に行った榊原兵曹の艇が一度も帰艦せず、気にかかるが、そのまま、二四〇〇、カミンボを後にして帰路につく。

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

草の根や木の葉、ヤシガニ、トカゲ、野鼠等、ガ島のあらゆるものを食い尽くし、幾ヵ月もよく頑張ったものだと思う

敵の制空権下を抜け出て、ある程度安全な海に入ることができた後の駆逐艦艦上の描写は、船の細部がどうなっているのか、兵隊たちがどんな服装なのかなどディテールを知らない自分たちにも、臭いと空気の感触は追体験することができるものだ。

二月二日

昨夜ぶじに脱出して、夜が明けると、強烈な熱帯の太陽の光をうけた上甲板は、陸軍の兵隊が死んだようにころがっていて、足の踏み場もない。兵員室は全部陸軍の兵隊で一杯で、入りきれない者が上甲板で寝ているのである。
本艦の乗員は彼らに兵員室を与えたので、総員配置についたままであった。

陸兵が発射管(魚雷発射管)の下、砲塔の下までもぐりこんでいて、どうにも整理に困る。彼らの頭髪は肩まで伸び、髪の色は変色し、体は骨と皮ばかり、そこには精鋭を誇った“ 皇軍 ”の姿はどこにもない。昨夜から本艦の伝令が兵員室と上甲板を走り回り、
「将校の方は士官室でお休み下さい」
と呼び回っているが、将校は一人も行かない。上甲板の蔭の方に兵士とともに坐り、うつろな目で海面を眺めているのみである。

主計科ではこれらの人たちの食物には十分気をつけて、まず軽い物で胃を馴らし、しだいに栄養のある物を加えているということであった。

元気の出て来た連中は、一人二人と我々の配置まで来て、顔を出して話し込む。

草の根や木の葉、ヤシガニ、トカゲ、野鼠等、ガ島のあらゆるものを食い尽くし、幾ヵ月もよく頑張ったものだと思う。本艦では各自が煙草を全部持ち出して、陸軍の兵隊に吸ってもらうことにした。

昨晩帰還せず心配していた榊原兵曹は、「時津風」にいることが判明して安心する。

帰る途中、敵機の爆撃にあったが、大したこともなく、午前中にぶじショートランドに入港、陸軍の兵隊は全部退艦した。しかし、あの中からは、今後も相当の数が死んでゆくだろうと皆で話した。

艦内はいやな臭いで一杯だ。何しろ負傷した手足に蛆が無数に湧き、上甲板でその蛆を一つ一つマッチ棒で無心にとっていた者も数人いたくらいだ。艦内大消毒を行い、大掃除で多忙であった。

第一回の作業で揚収した兵士は、海軍二百五十名、陸軍五千百六十四名で、意外に海軍(陸戦隊、連絡員等)が多い。

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年