【終戦70年】ガ島の夜光虫、哀しき「ケ号作戦」

非常に印象的なのは、将校たちが勧めに応じることなく、兵隊たちと一緒に上甲板で、海面をうつろな目で見つめていたというシーン。将校は、兵や下士官とは処遇から食事から給料から、何から何まで峻厳に区分されていた。基本、陸軍士官学校を卒業し、兵隊を指揮するために存在していたエリートだ。最も下の階級の少尉であっても小隊長として十数名の人間の生死を握って「ガ島」にあった。そして、元々差別されていた下士官兵とともに、「餓島」をさまよった。

兵たちがライフルを棄てたくらいだから、将校たちもその象徴である軍刀や拳銃をなげうって、身ひとつで生きる為にジャングルの中を彷徨してきたのだろう。

ここには、にんげんが描かれている。

赤道直下の日差しが照りつける上甲板で、兵たちとともにうつろに海を眺めていたという記述には、国家や戦争といったものと、生命や人間といった本質的なものの対照が如実すぎるほどに描き出されている。

そして、自分の体に湧くウジをマッチ棒で取るという描写、皇軍の兵隊さんたちへの感謝や同情は持ちつつも、艦内大消毒を行うというくだり。戦争があぶり出した生命というものが痛すぎるほどに迫ってくる。赤道直下の青い海と眩しい光の陰刻として。

作戦はまだ続いた。最後の撤収行ではあまりに切ない出来事が起きる。

二月七日 晴
〇九〇〇ごろ、ショートランドを出撃。今回は駆逐艦十八隻である。

(中略:空襲を避けながらカミンボへ)

予定通り、夜半カミンボに入泊、すでに陸兵は前回残した大発、小発に満載となり、我々を待ちうけていた。
今夜は最後なので大変な人数である。
「雪風」には八百数十名が乗艦し、甲板はまたしても足の踏み場のない状態である。

やはり今夜も、艦側まで来ながら海中に没して行った者もかなりあったようだ。
浮き上がる力がないのだから助けるすべもない。陸軍の松田大佐、笹川中佐も本艦に収容される。これで全員収容したというので、各艦では使用した大発、小発を処分して沈めてしまう。(「公刊戦史」の放棄の方が事実らしい)こんなものを曳航していては爆撃回避の邪魔になるし、速力も出ないからだ。

艦は微速で動き出した。
敵機も来ず、空には無数の星が輝いて、光は海面に反射して、泊地は元の静けさにもどりつつあった。
そのとき、上甲板で作業をしていた我々は、はっとして耳をそばだてた。

人の呼ぶ声が聞こえる。
「オーイ、オーイ!」
カミンボの海辺からである。
私は思わずヤシの梢でまたたいている星を見上げた。もう浜に人はいないはずである。では幻聴であろうか。しかし、戦友も同じだとみえて、
「おい、聞いたか、あの声を……」
みなは思わず顔を見合わせた。戦死した兵隊の霊が呼んでいるのであろうか。

しかし、もうどうすることもできないのである。
呆然として甲板上にたたずむ我らの耳に、ふいに敵のトミーガン(自動小銃:と本文にはあるが短機関銃)と覚しき発射音が聞こえた。島影の右側から閃光が連続して見える。やはり友軍が島に残っていて、やっと泊地に辿りついたとき、味方の駆逐艦はすでに出港していて、追ってきた米兵と闘っているのであろうか。

後ろ髪引かれる思いで帰途についた。
この夜、司令官は大本営に向けて、
「英霊二万の加護によってぶじ撤収す」
という電報を発した由。

(中略)

八日に打電されてきたGF山本長官から増援部隊にあてた賞訓にはつぎのようにある。

「天佑に依り至難なる今次作戦に画期的成功を収め得たるは感激に堪えず。此の間各部隊は決死献身よく難に当り敵を制圧して偉大なる戦果を挙げ、而して『ガ』島上陸部隊を余すことなく海軍艦艇に収容するの成果を挙げ得たることは、帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せるものと言う可く、茲に深く参加将兵の苦労を多とすると共に斃れたる忠勇の英霊に対し衷心より敬弔の意を表す」(原文はカタカナ)

引用元:豊田穣「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯」光人社 1983年

これは一体、何なのか。

東日本大震災では、当日の夜、ヘリコプターからの報告として、「仙台市荒浜地区の海岸に二百体以上の遺体が流れ着いています」とか、「女川は壊滅」とか、そんな、人の生命を「数」としてあらわす報道があふれた。その言葉に震撼した。

夜光虫漂う南の海に沈んでいった、餓死寸前でようやく舷側までたどり着いて力尽きた人々は、その名前はおろか、その数すら知られていない…

人は生きてある時も、死んでしまった後も、名前を持っている。ひっくるめて「何人」「何人くらい」なんて言われるような筋合いの存在ではない。だれにでも親がいる。兄弟や子がいる人も多いだろう。それを、名前はおろか、数としてすら掴むことができないなんて。

他方、そこには、人々を死に追いやった立場にあった人たちがいた。金物のように沈んでいった人たちを目前に見ることなく、将棋を指すがごとくに作戦を指導した人たちがいた。このことは忘れてはならない。(上甲板に兵隊たちとともにあって、うつろに海を眺めていた将校たちとも、あまりに鮮明な対照ではないか)

しかし、数さえも、いや、たとえ数がわかろうが、名前が判明しようが、そもそも何の意味も持たないのだ。命がそこで失われてしまったのだ。その命はだれがどんなに叫んでも帰ってはこない。それも、戦争だから仕方なかったというのか。

これが戦争だ。

これが戦争というものだ。

舷側に張られたネットから落ちたまま、金物のように海に沈んで行った兵隊も、カミンボの海辺から叫んだ兵隊も、日本の皇軍の兵士たちだった。

どうしても過去の出来事として片付けることはできない。いかにハイテク兵器を取り揃えようとも、米軍式の訓練を積もうとも、希望的観測をドグマ化し、うまく行かない時には精神論を振りかざしたくなる癖がある日本である限り、同じことは間違いなく繰り返されると思う。たぶん確実だろう。

にんげんが、夜光虫の海に沈んで帰ってこないといった悲劇を繰り返さない方法はひとつ。それは戦争をしないことではないか。違うだろうか。