天下の台所・大坂、町を縦横に走る掘割(運河)を津波がさかのぼる。川や掘割に係留されていた船ごと津波がさかのぼる。大きな船も小さな船も驚くような速さで掘割を走って橋に激突する。激突して壊れた船にさらに大船小船がぶつかって、やがて橋も船も粉々になる。そしてさらに上流へ――
推定をはるかに上回る可能性もある巨大地震
宝永4年10月4日(1707年10月28日)、関東から九州までのきわめて広い範囲を襲った宝永地震による大震災。地震計はおろか、カメラもビデオもない時代だから、どのような地震だったのかは各地に残された古文書によるほかありません。それでもこの地震はマグニチュード8.6、紀伊半島沖を震源とし、東海・東南海・南海地震が三連動で起きたプレート境界地震であると推定されています。しかし、その津波被害はあまりにも広範囲に及びます。東は江戸湾(東京湾)の湾奥から、西は九州を回って長崎の出島でも津波が発生したという記録が残っているそうです。M8.6と推定されたのは、まだ東日本大震災が発生する前で、日本でM9クラスの地震は起きないだろうとされていた頃のことなので、実際には推定をはるかに上回る、東日本大震災クラスの地震災害だった可能性も指摘されています。
いずれにしろ、いま大いに心配されている南海トラフ沿いのプレート境界地震が発生した時、全国にどのような被害が及ぶのか。減災を考える上で検証が欠かせないのが宝永大地震であることは間違いありません。
関東大震災当時の資料を紹介する記事では、「自分の知っている地名が出てくると、地震の時にそこで何が起きたのか、リアリティをもって伝わってくる」とアドバイスしてくれた方がいました。宝永大地震についても、各地に残された資料から、できるだけ具体的な地名を含めて取り上げたいと思います。
道頓堀では日本橋まで津波が達した
太平洋から遠く離れた大阪を津波が襲ったとは、にわかに信じらないかもしれません。しかし宝永地震による津波は太平洋岸のみならず、瀬戸内海にも侵入し、広島・岡山でも3メートルクラスの津波が記録されています。大坂の津波の高さは研究によって幅がありますが、2~5メートルほど。ただし、津波が到達した場所については複数の記録が残されているようです。
「波速之震事」という資料によると、
安治川・木津川・道頓堀・長堀・立賣掘・堀江川筋へ諸廻船一時ニ込來、木津西濱邊江大船込上ケ、道頓堀川筋日本橋ニて船止リ申侯
濱々大船ニて押崩され、潰家凡六百三軒、北組ニテ二所落橋、南組ニテ十七所、天滿組ニテ七所
〆二十六橋 外ニ大損四橋有
廻船〈大小/破損〉〆三百廿餘艘
安治川・木津川・道頓堀・長堀・立賣掘・堀江川筋へたくさんの廻船が一編に突っ込んできた。木津川の西の浜辺には千石船のような大船が乗り上げた。道頓堀川は日本橋でようやく船が止まった。
各地の海辺の集落は大きな船で押し崩された。倒潰した家屋は603軒。落ちた橋は北組で2、南組で17、天満組で7カ所。〆て26の橋が落ち、ほかに4つの橋が大破した。廻船の被害は大小合わせて320余りだった。
「名なし草大坂大地震之事」では、
大潮さかのほり、大船道頓堀・日本橋迄押込候、其外安治川迄勿論、廿五日比まて、毎ニ地震ニて夥敷はそん致し申侯、
死亡人 七千人餘
家數 六百三軒
洪水ニて死亡人 壹萬人
舟數 三百艘
橋數 五十餘
津波がさかのぼり、千石船のような大きな船が道頓堀の日本橋まで突っ込んできた。そのほか安治川も同様だった。25日頃まで毎日の余震でおびただしく破損した。
死亡したのは7000人余り、家の被害は603軒、洪水で1万人が亡くなり、船舶の被害は300隻、橋は50余りが壊れた。
共通するのは道頓堀川をさかのぼった津波は、心斎橋を越えて電気街として有名な日本橋まで到達したということです。町の中心部を突き抜けていくほどですから、より大阪湾に近い木津川や安治川沿いが津波に呑まれてしまったのは間違いありません。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンや天保山のようなウォーターフロントは完全に水没です。安治川沿いの津波は中之島を越えたようです。
大阪の地理に明るい方は地名から、津波の様子を想像してみてください。大阪の地名に詳しくない方は、地図をぐりぐり動かしてみてください。街の中心を南北に貫く御堂筋を越えて、津波が大坂の町を襲ったことが判るでしょう。
宝永地震津波が遡上した日本橋
津波はただの水ではなく、川や掘割に係留されていた船を巻き込んで内陸部に押し寄せました。そして、冒頭のような壮絶な状況を引き起こしたのです。
しかも、大坂は地震そのものによる被害も甚大でした。北新地から江戸堀、立売堀、心斎橋まで、建物が残らないほど激しい揺れだったということです。余震も繰り返されていたでしょう。危険を感じた人々の中には、掘割に浮かんだ船に避難した人々も多かったと伝えられています。
橋を砕き、ぶつかり合う船同士が粉々になってしまった大坂の津波。その船には多くの人々が乗っていたのです。
津波は川や運河をさかのぼります。縦横に運河が走る大阪のような街は、内陸奥深くまで津波被害が及ぶおそれがあります。東日本大震災で大きな被害を受けた石巻も、古くからの海運の町でした。現在は蓋をされたり埋め立てられて、外からは見えなくなっていますが、昔からの町並みの地下には江戸時代の掘割が残されているそうです。津波は何百年も昔に造られた運河を通って、町なかを水没させました。
宝永地震の大坂の津波は、海辺の都市が抱えている津波への脆弱さを物語っています。近代化された都市だから心配ない、というものではありません。あなたの家の近くに運河はありませんか。海につながる排水路はありませんか。「うすい」と刻まれたマンホールは川や海に大きな開口部で直結していることがあります。マンホールから津波が吹き出してくる可能性も考えられます。
「もしかしたら」という目で、津波の被害の可能性がないかどうか、もう一度確認してみてください。
(つづく)