関東大震災写真集

凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス

「関東大震災直後ノ詔書」と呼ばれる摂政宮殿下による詔

「関東大震災直後ノ詔書」には次のような内容が記されている。

9月1日の激震は突然の出来事で、その震動はきわめて峻烈だった。家屋は倒壊し無惨にも命を失った人々の数は何万に上るかわからない。しかも方々で大火災が発生し、その火炎は天にまで昇り、京浜地区などの町々は一夜にして焦土と化した。この間、交通は寸断され、そのために流言飛語が広まり、震災による被害をますます大きなものにした。かつての安政の大地震に比べても、むしろ凄愴な状況だろう。

この大震災の被害に深く思うのは、天災地変を人の力で予防することは困難であり、私たちにできることは人事を尽くして人々の心の安定を図ることのみということだ。

非常の際には非常の判断と果敢な行動をとらねばならない。もしも、平時の決まりごとにとらわれて、なすべき判断を誤ったり、スピーディに対処しなかったり、さらには個人や一企業の利益を守るために、罹災した多くの人々の安全や生活を脅かすようなことがあれば、人々の心は動揺して、その不満をとどめることはできないだろう。

関東大震災は遠い過去の出来事に思われるかもしれない。東京や横浜の町を歩いて、当時の震災の跡を見出すことはほとんど不可能だ。しかし、いまから3~4世代も遡った父祖たちにとって、関東大震災は忘れることのできない凄惨な記憶だったはずだ。震災が起きた9月1日には、大地震に見舞われた大都市がどうなるのか、そこに生きていた人々はどうなったのか、できる限りつぶさに、具体的に、ことの細部まで思い起こして追体験したい。

昭和天皇の言葉にあるように、天災地変を人の力で予防することは不可能だ。しかし、人事を尽くして人々の心の安定を図ることは今を生きる私たちの神聖な義務だと思わずにいられない。

戒厳令が準用された東京で活動する陸軍部隊

今暁もなほ延焼

「今暁もなほ延焼」「軍隊爆弾を投じて破壊し、猛火の喰止めに奔走」「ネグラを探す憐れな女学生」…恐ろしい新聞見出しが並ぶ

小学生200名、山崩れで生き埋め

小学生200名、山崩れで生き埋め 教員もほとんど死亡す 惨たる横須賀市」「生首を提げてさ迷う四十男 地獄を現出した救護所 日本橋の惨況」「市内各所に臨時火葬場 鬼気迫る市中」

山崩れによる事故の記事は残念ながら判読不能。その隣の記事には、頭だけを出していた被災者に牛乳やウィスキーを飲ませていたが、2日目にようやく全身を掘り出したところ絶命したといった内容が記されているようだ。死んだと思っていたら6日になってひょっこり徒歩で帰ってきたというような内容も読み取れる。

▲横須賀 死者450人、負傷800人、行方不明200人
▲川崎 死者180人、負傷者200人
▲鶴見 死者10人、負傷者30人
▲小田原 死者1381人、負傷者1万236人

郡部の総合系
死者 4331人
負傷 2万3883人
行方不明 353人

裁判長、検事正、みな圧死

「亡びゆく名所と再生の都の新名所」「全滅せる横浜」

「新名所」が何を意味するのかよく分からないが、記事を抜き書きしてみると、

亡びゆく名所と再生の都の新名所
一夜にして烏有に帰した大江戸文化の数々
(烏有に帰す:ウユウニキス 何もなくなってしまう)

上野公園下から広小路方面を望む。正面に見えていた坂屋(松坂屋の脱字か)は、まったく焼け落ちてしまった。
下は赤坂見附自働車隊の活動

軍隊による復興支援が新名所ということだろうか。

左ページの内容は悲惨である。

全滅せる横浜

横浜方面では1日正午少し前、突然空中に振り回される如き激震起こり、わずかに数分、家屋はことごとく倒壊。血みどろの市民は右往左往の中に、市中数か所から出火。忽ちにして横浜市はこの世から葬り去られた。当時の光景を表すべき形容詞は、まだ人間によって作られしを覚えず。倒壊を免れた建物は正金銀行その他の大建築も間もなく猛火のために焼き尽くされ、死者数万に上った。

裁判長、検事正、みな圧死
横浜地方裁判所は執務中に全滅
末永横浜地方裁判所長、福鎌検事正以下四十有余名の判検事は執務中に全員圧死した。司法省では目下善後策を講じている。
(横浜地方裁判所ではレンガ造りの建物の倒壊と火災により、判事や検事のみならず弁護士、裁判所職員、新聞記者、証人、鑑定人、訴訟関係者まで裁判所にいたほぼ全員が死亡。この場所での死者は100人を超えるという)

大震源地は横浜附近か
中村博士の新研究
余震震源はこの辺
(残念ながら本文は判読できず)

右は横須賀、左は湘南の相模川についての記事

罹災者の再起という、あまりに重い課題

雨に濡れた避難者の群れ 冷気に襲われて悲惨な小屋掛け

昨夜からの豪雨で難渋しているのは、日比谷公園を始め各地の野天に小屋掛けしている避難者の群れである。彼らはブリキや敗れ板で■に囲いをしているが、雨は漏り放題、下からは湿気があがって衣服も何もビショ濡れだ。体のためには非常に悪いがどうすることもできぬ。

それに冷気が加わっても十分の夜具がないので、大概、紫色の唇に鼻汁をたらしているという悲惨なあり様。定めし病人も増すことであろう。しかし行くところがないので観念しているようである。

海軍省の廊下には500人余の避難者が、いずれもアンペラ(安いむしろ)の上に寝転んでいる。これでさえほかの避難者よりもよほどよい。日々や辺りでは医師の巡回診療が焦眉の急である。

悲惨中の惨として永久に恨の消えないのは

左ページには、天皇陛下からの見舞金、亡くなった皇族ご遺族の言葉、皇族方の消息にあわせて、「関東大震災記」との一文が掲載されている。おそらく編集長か会社の主筆による「関東大震災記」から、迫真の描写を一部抜粋する。

午前11時58分、人々の多くは今まさに昼の食事につかんとし、あるいは既に一家たのしい食膳を囲んでいる時であった。突如いずこともなく異様な響きを聞くとともに大地はぶるぶるとふるえ出し、あるいはドンと突き上げられた。来る! 来る! 大地震来る。スワと思う間もなくレンガ崩れ瓦飛び、柱は挫けて家は倒れ、濛々たる土砂の煙り立ち上がると見れば、たちまち紅蓮の焔は四方に起こって家から家へ、町から町へと燃え移る。

驚いて戸外に飛び出すもの、倒れて傷つくもの、逃げ後れて圧死を遂げるもの、逃れ惑うて泣き叫ぶもの。子は親を失い、妻は夫に別れ、阿鼻叫喚の声、全市に満ちて惨また惨。地は間断なくふるい、地震とともに水の手が止まった上に、二百十日の烈風が吹き出したので、猛火は縦横に燃え拡がり、黒煙天日を閉ざして物凄く、いまにも世の終わりが来たかと思うような阿修羅地獄を現出した。

かくして東京市中八十八カ所に起こった火は、日比谷といわず、銀座といわず、日本橋、両国、本所、浅草、下谷、神田、芝、赤坂と、忽ちのうちに帝都の大部は怖ろしき火焔の海の底に沈められた。

前肢は焦熱地獄と化した。ソノ火はその日の昼から一晩中燃え、翌2日も一日燃え続けて、その日の夕方にようやく止んだ。見れば全市一望焦土と化し、ここに300年の文化の華、大江戸の昔から築き上げられた東洋一の大帝都大東京は一瞬の間に茫々たる焼野原となってしまった。何たる大惨事であろう。

引用元:「関東大震災画報」(写真時報社)

ことに悲惨中の惨として永久に恨の消えないのは、本所被服廠跡で3万4000人の人々が避難中に火焔の大旋風でひとたまりもなく焼かれたことと、隅田川の各橋上に避難した人々が、橋の両端から焼けてくる火に攻められて、雨のように水中に焼け落ちたというそれである。

引用元:「関東大震災画報」(写真時報社)

かくの如きは今までの人知の限りでは到底想像だにし得なかった、空前絶後、酸鼻の極というべきである。我らはこれを叙し、それを弔うべき筆も文字も到底持ち得ない。

引用元:「関東大震災画報」(写真時報社)

また、さらに眼を湘南一帯に転ぜんか、震源が相模湾にありしためか、横浜、鎌倉、小田原、その他の都市村落ひとつとして惨害を蒙らぬはなく、あるいは激震により倒され火事に焼かれ、または海嘯に襲われて死傷算なきうちに、ことに酸鼻を極めたのは横浜市であった。第一回地震が東京よりもよほど烈しく、全市は全く一軒も残さず、一度に破壊しつくされ、続いて火炎を起こし、完全に焼けてしまった。横浜全滅の文字は決して誇張でもなんでもない。すなわち震源地は横浜直下ではないかと云われるくらい、空前の大激震であった。

引用元:「関東大震災画報」(写真時報社)