東京で知り合った静岡県の県立高校の先生、岡田昌人さんが、東北に生徒たちを連れていってスタディツアーを行っている。その報告としてFacebookに上げられた記事に打たれた。先生にお願いして全文引用させてもらうことにした。ひとりでも多くの人に読んでほしい。つよく深く希望します。
浜松湖東高校スタディツアー報告③ 石巻開成仮設住宅にて(その二)
唐突な話であるが、七年ほど前、山の事故で友を喪った。
その時私は友とロープでつながれており、たまたま先行する友が、何かのはずみで断崖から足を踏み外した。
目の前を墜ちていく友の後を、猛スピードでロープが追いかけていくのが見えた。一定の長さに達した後、そのロープは、今度は私を連れて行くはずであり、瞬間私は死を覚悟した。
だが、いつまでたっても私はその場にとどまっていた。見ると、灌木の茂みにロープが絡まっており、そのしなやかでしたたかな数本の細い枝が、しっかり私の命を支えていたのである。
私は生き残ってしまった。
これを人は天佑というのかもしれないが、当人にその言葉は通じない。自分だけが生き残ってしまったという罪障感だけが心を占める。いつまで?おそらく、死ぬまで。
なぜここでこのような話を持ち出すのか。私には、自分が以下のことを語る義務と使命があると考えていることを、あらかじめ知っていただきたいからである。
開成仮設住宅の生活支援施設「あがらいん」での、クリスマスイベントは、11時半からの開催であったが、始まる前から物見高いお年寄りや子どもたちが訪れていた。
高校生たちも、学校で作成して看板を立て、事前に練習したヨーヨー作りを手際よくこなしながら、開始時間前までには準備を整えていた。
出し物としては、ヨーヨー釣りブース、射的ブース、カラオケバス(私たちが乗ってきたバスをカラオケ会場にしてしまう)ブース……だが、どんなに用意周到準備してきても、それが始まると、なんといっても今回の主役になるのは「餅つき」なのだった。トップツアーの藤沼さんが言ったこと、東北では餅つきというのは特別な行事、というのはうそや誇張ではないのだった。
状況がさらに一変するのは、帰るころには「おかあさん」と、うちの女子や女性教員に呼ばれるようになる、年配のご婦人の登場からだった。
施設の人は無論、近所から顔を見せた方々も、○○さんが来た、もう安心だ、という意味の言葉を口々に発し、発するだけでなく、ようやくこのイベントも本番だという空気になったのである。
毎年家で餅つきをするという同僚は、餅つきは餅をつくのは簡単で誰でもできるが、こねるのが難しい。やけどしそうな熱さに耐えねばならないし、タイミングを見るのに熟練が必要だなどと薀蓄を垂れていたが、その彼がおかあさんの動きを見て取るなり、これはすごい、とうなってしまったのである。
会場は餅つきを中心にフル回転で回りだす。
搗き手は男子生徒を中心に次々に交代するが、悲しき現代っ子は手元もおぼつかない。おかあさんに揶揄されながら性根を入れられる。女子生徒も参入するが意外とこれがうまい。聞くと地元の子ども会で餅を搗くのは年中行事であるとのこと。おかあさんの称賛を浴びてはにかむ姿に会場が和む。それまで遠巻きに見ていた地元のおじさんが「どれ」とばかりに加わると、こらえかねたようにほかのおじさんたちも杵を奪い合い、次から次へと餅が出来上がる。出来上がったもちは、おかあさんの神業のような手さばきで一口サイズにちぎり取られ、待ち受けた餡付け係りときな粉係に渡されていく。かと思えば、そのそばでぼんやり所在なくたたずむ男子生徒に「ホレ」と言って一切れ手渡す。「うめえ」と言ってそいつが離れると、そこにまた次の男子がたたずむ・・・
こうして時間は流れた。餅をこね、搗き、運び、ちぎり分け、黄な粉をまぶせ、餡をからめ、運び、配り歩き、手渡し、自分も喰らい……。おかあさんの周りには、いつの間にかそのような分業体制が生まれていた。
おかあさんにこね方の手ほどきをしてもらい、すっかり上手になった若い女性教員。出来上がったもちを、入所者の方に配り歩きながら話し相手になる女子生徒。それぞれのブースで子どもたちの相手をしながら、自分もちゃっかり楽しんでいる男子生徒。機転が利かず、ただ突っ立っている一年坊主……
誰に対してというわけではなく、自分はここにいるすべての人に祝福をささげたかった。支援しに来た側にも支援されるべき側にも。
震災の時、内陸部の職場にいたため津波の難を逃れたという人は、おそらくたくさんいたのであろう。ところが、その方(仮にAさん)の住まいは海のそばにあり、家族のほうは、みな流されてしまう。
家も失ったため仮設住宅に入るのだが、そのまま引きこもってしまい、何日かたって発見された時には、Aさんの足は壊死を起こしており、ついに片方は切断せざるを得なかった。何日もの間、一人部屋の中で正座し続けていたのである。
Aさんの隣近所に声を掛け合う付き合いがあれば、ここまでは至らなかったかもしれない。だが、この仮設は前回書いた通り、当初は分断された人々の寄せ集めだったのである。家族、ご近所、住み慣れた土地、日常の風景からAさんは分断されてしまっていた。
日常というものの大切さを、日本人に改めて教えてくれたのが今回の震災ではなかったか。
七年前、死の淵に取り残されてから、私を癒していってくれたのは、慰めようとしてくれた言葉ではなく、何も知らず、何も知ろうとせず、ただ日常の世界を回し続けていってくれる日常の中の登場人物だった。変哲のないことで泣き怒り笑う、変哲のない人々。変哲のない日々。そうした日常の繰り返しの中で、ようやく自分は日常の世界への愛着を取り戻し、日常の世界への住人へと戻ることができたのだった。そしてその日常の中で、自分に何かできること、役立てることがあると思えたら、その人は今まで以上にずっと自分の残された命を大切にできるようになるのではないだろうか。たとえそれが、もちのつき方こね方を人に伝授できるといった、些細なことであっても……
前日から重くなり始めた風邪の症状で、時々暖房のきいたカラオケバスの中に退避すると、ノンストップ演歌……自分の父親くらいの年配の方が歌う「赤城の子守唄」をうつらうつら聞きながら、そんなことを考えていた。
岡田昌人さんと出会ったのは、スーダンと東北で活動するNGO/NPO ロシナンテスの東京報告会でのことだった。ひと言ふた言ことばを交わしただけで、岡田さんの「熱」が伝わった。彼はその日講演の壇上に立った田地野茜さんがいかに貴重な人材であるかを「教師の敗北」という言葉まで使って語り続けた。
「ひとりでも二人でも田地野茜に続く人材に育ってほしい」とも語った。そして、高校生の有志を連れて東北の被災地を訪ねるスタディーツアーを行っていることを教えてくれた。引用させていただいたのは、その最新の報告だ。
内容について、つべこべ解説する必要はないだろう。ただ、失った日常を取り戻すのがどんなことなのか、そして日常を失ってしまった人たちが何万人、何十万人もいることを心にとどめて頂けたらと思う。読んで感じたことを隣にいる誰かと共有すれば、それはきっと変化する力になるはずだ。
構成●井上良太
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